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フェルシア農業国の首都、フェルシアナ。大陸間航空機が高度を下げ、滑走路へと着地する重厚な衝撃が機内に伝わった。アレン・ヴァルグレイは、無機質な黒い瞳で機窓の先に広がる景色を眺めていた。視界の端から端までを埋め尽くすのは、収穫の時を待ち、波打つ小麦の海。地平線まで続くその黄金色は、春の陽光を浴びて神々しいまでの輝きを放っている。
だが、アレンの視界に映るのは、その美しすぎる黄金色の下で不気味に蠢き、大気を鉛のように重く沈ませる「蒼い魔力の澱み」であった。機窓のガラスに額を寄せるようにして眺めるその光景は、地上の誰もが讃える豊穣の証であるはずなのに、アレンの網膜には、まるで生き物の内臓を透視するかのような、不健全な脈動として映っていた。
「……着きましたね、アレン様」
隣でリィナ・フェルウェンが静かに呟いた。彼女の淡い青色の瞳には、未知の大地への期待よりも、アレンから伝わってくる微かな緊張を察した不安が混ざっている。アレンは答えず、ただ右腰に添えた《蒼断刃》と左腰の《白緋》の感触を指先で一度だけ確かめた。金属の冷たい重みが、これから踏み込む土地の異質さを静かに予告しているようだった。
ハッチが開き、タラップが降りる。外気と共に流れ込んできたのは、芳醇な穀物の香り……を装った、現代魔術の理を拒絶する「深層の不純物」の残響。一歩、フェルシアの大地を踏みしめたアレンの足裏に、肺の奥を直接掴むような不快な震動が伝わった。それは決して激しいものではなかったが、確実に、じわりと骨の芯にまで染み込んでくるような重さを孕んでいた。
「救世主アレン・ヴァルグレイ殿! 我が国へようこそ!」
滑走路の先に待ち構えていたのは、鳴り止まない喝采と色鮮やかな花吹雪であった。公国の英雄、そして大陸の守護者として名高い「零番」の来訪を、フェルシアの民は熱狂をもって迎えていた。包囲網の代わりに敷かれたのは、王族の出迎えに匹敵する真紅の絨毯。楽団が奏でる祝典の旋律が、滑走路の空気を華やかに震わせている。その中央に立ち、穏やかな笑みを浮かべていたのは、国王アウロス・フェルシアであった。
「アレン殿、急な依頼に応えていただき感謝する。……さあ、まずは王都の『息吹』を見てやってほしい」
アウロスの先導で、一行は最新型の電動魔導装甲車へと乗り込んだ。車内は完璧な防音と空調が施されていたが、アレンはあえて窓を開け、外の空気を自身の感覚へと取り込んだ。装甲車の座席は柔らかな革張りで、車内には仄かに花の香りが漂っていたが、その心地よさとは裏腹に、アレンの表情は硬いままだった。
装甲車が王都フェルシアナの目抜き通りを滑走する。窓外には、再建と繁栄の象徴である活気あふれる市場が広がっていた。そこかしこに黄金色のパンを積み上げた屋台が並び、香ばしい匂いが潮風のように街を満たしている。街角には子供たちが駆け回り、露店では色とりどりの果物と共に黄金小麦の菓子が飛ぶように売れていた。
「アレン様、見てください! 皆さん、あんなに幸せそうで……」
リィナが指差す先では、市民たちが黄金小麦のパンを頬張り、頬を紅潮させて歓喜の声を上げていた。
「魔力が洗浄されたみたいだ」
「昨日の疲れが嘘のように、体が軽い」
ニュースで耳にした言葉が、現実の熱狂となってアレンの鼓動を叩く。サツキ・ハートフィールドも、武人としての鋭い気配を和らげ、窓外を流れる豊かな景色を感銘を受けたように見つめていた。セリス・ヴァレンティアもまた、車窓に映る民の笑顔を眺めながら、僅かに口元を緩めていたが、その視線の端は決して油断なく周囲の警備の配置を追っていた。
だが、アレンの脳内で演算される大地の波形は、その喜びとは真逆の「悲鳴」を上げていた。市民たちが口にする「軽やかさ」の正体──それは、彼らの魔力循環系が外部から持ち込まれた深層魔力の波長に無理やり書き換えられ、本来の「重み(質量)」というブレーキを失っているだけの異常事態に過ぎない。健やかな笑顔の裏側で、目に見えぬ何かが着実に、そして静かに、市民たちの内側を侵食し続けている。その齟齬が、アレンの神経をひりつかせていた。
(……重いな)
アレンは独り言のように、温度を欠いた声で呟いた。
(……この街の空気は、不自然に澄みすぎている。肺に張り付くようなこの澱み……誰も気づいていないのか)
彼の警告は、歓迎の喝采にかき消され、誰の耳にも届くことはなかった。装甲車はそのまま白亜の王宮へと滑り込み、重厚な正門を潜り抜けた。門柱に施された繊細な浮き彫りには、豊穣を司る女神の像が刻まれ、その足元には小麦の穂が幾重にも束ねられて奉納されている。かつてこの国の平穏を象徴していたはずのその像が、今のアレンの目にはどこか哀しく映った。
王宮の引見の間。高い天井には農耕の女神を称えるフレスコ画が描かれ、磨き抜かれた石床に差し込む陽光が、室内の静謐さを際立たせている。壁際には歴代の王たちの肖像画が並び、その一枚一枚が、この国が千年にわたり大地と共に歩んできた歴史を静かに物語っていた。アウロス王が玉座に腰を下ろし、アレンたちがその正面に立った、まさにその瞬間であった。
──キィィィィィィィィィィン!!
室内の魔導照明が、過負荷による火花を散らして一斉に明滅した。重厚な扉が地響きを立てて閉じられ、それと同時に、広間の二階回廊や柱の陰から、フェルシア国家保安局の「保安警備隊」が雪崩のように躍り出た。彼らが構える最新型の魔導小銃が、容赦なく四人の中心を射抜く。銃口の先端に灯る照準用の紅い光点が、四人の胸元でいくつも揺らめいていた。
「動くな! 魔軌士No.0、アレン・ヴァルグレイ!」
拡声魔術を通した鋭い警告が響く。保安警備隊の指揮官たちの顔は、かつての救世主を迎える喜びなど微塵もなく、得体の知れない怪物を前にした死に物狂いの恐怖に引き攣っていた。銃を握る指先が細かく震え、緊張の汗が額を伝う者もいる。
「な、何ですの、この仕打ちは……!」
セリスが青色の瞳を怒りに燃やし、レイピアの柄に手をかけた。サツキもまた、愛槍の石突を石畳に響かせ、反射的にアレンの死角を埋める位置へと踏み込む。リィナは咄嗟にアレンの腕へと手を伸ばそうとしたが、その指先は空を掴むように止まった。あまりに唐突な裏切りに、彼女の思考は一瞬、真っ白に染まっていた。
「待て。……まだだ」
静まり返った広間の奥から、一人の男が獲物を見定めた肉食獣のような笑みを浮かべて現れた。バルトロメウス・エルド教授。彼は手元のアーク・リンクを操作し、空間に巨大な魔力解析グラフを投影した。灰白色の髪を乱したまま、彼の足取りには、これまで積み重ねてきた計画がついに実を結ぶという、隠しきれない高揚が滲んでいた。
「アレン殿。残念ながら、科学は残酷な真実を暴き出しました。……今、我が国の大地を侵食している『未知の汚染源』の波長。そして、二年前、貴殿が各地の迷宮から持ち帰った不純物のデータ……。見ての通り、一〇〇パーセントの精度で一致しております。 これは、貴殿が各地の迷宮から極秘に持ち出した『深淵の泥』を、この地に撒き散らした動かぬ証拠です」
投影された青白い光が、アレンの無表情な横顔を照らし出す。教授は勝利を確信した歪な笑みを浮かべ、さらに追い打ちをかけるように断じた。
「貴殿の持つ『理外の収納空間』に秘匿された汚染源の母材……。それを差し出し、鑑定を受けるまで、貴殿を広域魔力汚染、および環境テロの容疑で公式に拘束いたします」
アウロス王が、震える手で自身の胸元に下げられた「土の小瓶」を握りしめた。その瞳には、教授への信頼と、目の前の男への疑念とが、痛々しいまでの葛藤となって渦巻いていた。
「……アレン・ヴァルグレイ。抵抗は許さぬ。……武器を捨てろ」
アレンは、周囲を取り囲む保安警備隊の怯えを含んだ殺気を、一切の威圧感を排した瞳で受け流した。そして、警備兵たちが踏み込んでくるコンマ数秒の隙間──現代魔術の探知術式では決して捉えきれない、刹那の空間干渉。
腰に添えていた《白緋》と《蒼断刃》が、アレンの指先が触れると同時に、理外の暗闇──《空間収納》の中へと音もなく吸い込まれて消えた。表面的には、彼が無造作に武器を解いたようにしか見えない、完璧な証拠隠滅。
リィナが「そんな……嘘です!」と声を上げようとしたが、非武装の状態となったアレンは、ゆっくりと両手を挙げた。その漆黒の瞳には、驚愕も憤怒も宿っていない。ただ、王都が上げている「重い悲鳴」を、冷徹に観測し続ける静寂だけがあった。彼の視線は保安官たちの誰にも向けられず、ただ足元の石床の遥か下、大地の深部を見透かすように据えられていた。
「……アウロス陛下。一つだけ、忠告しておきます」
拘束のために歩み寄る保安官たちの手元を、アレンの極低温の言葉が凍りつかせた。
「陛下が手にしているその瓶の震動は、浄化の喜びではない。……この地が自らの重さに耐えかねて上げている、自壊の断末魔だ。……あんたたちが信じている『福音』の正体、その重みに潰される前に、真実のピースを数え間違えないことだ」
「黙れ! 犯罪者の戯言を封じろ!」
教授の逆上に呼応するように、保安官たちがアレンの腕に重厚な魔力拘束具を嵌め、彼を引きずり出すようにして連行していった。鉄の輪が手首に食い込む冷たい感触にも、アレンの表情は微塵も揺らがなかった。
残されたリィナたちは、「重要参考人」として別室への隔離を命じられた。だが、去り際のアレンと視線が交わった瞬間、三人の楔たちの胸には、共通の、そして揺るぎない号令が刻まれていた。
──『待て。そして、掴み取れ』。
王都フェルシアナを包む黄金の陽光は、もはや繁栄の証ではなく、理を失った国を焼き尽くす、残酷な断罪の炎のように見えた。最強の魔軌士は、あえて監獄の底へと沈みながら、この狂った設計図のすべてを暴くための「観測」を開始したのである。引見の間の扉が重々しく閉ざされる音だけが、静まり返った広間に長く尾を引いて響いていた。




