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ガルディア公国宮殿の奥まった一室。公女王エリシアの私的な執務室は、春を告げる柔らかな陽光が差し込み、淹れたてのハーブティーの香りが穏やかに漂っていた。しかし、室内に展開されたホログラムウィンドウが放つ不気味な蒼い燐光が、その平穏な空気を鋭く切り裂いている。
「──断る」
アレン・ヴァルグレイの温度を欠いた声が、室内の静寂を打った。彼は宙に浮遊するデジタル公文書を一瞥しただけで、視線を窓外の庭園へと戻した。漆黒のコートが、背後に控えるリィナたちの魔力循環を受けて微かに波打っている。窓際に置かれた花瓶の水面が、彼の言葉の冷たさに呼応するように、ほんの僅かに震えたように見えた。
「アレン殿……。事情は今、説明した通りなのだけれど」
エリシアが困惑したように眉を寄せた。彼女の指先が、フェルシア農業国から届いた「土壌汚染解析データ」の不規則な脈動を指し示している。現代魔術の理を拒絶し、大地の循環を泥濘へと変える未知の魔力波形。それを根源から消去できるのは、理外の零番であるアレンをおいて他にいない。エリシアの声には、一国の元首としての焦りと、友としての戸惑いが等しく滲んでいた。
「俺は魔軌士だ。迷宮の魔獣を殺し、資源を持ち帰るのが本業であって、農作業の専門家じゃない。土壌の異常なら、学術国家セレノアの学者か、フェルシア自前の技師に任せるべきだ」
アレンの言葉は、冷徹なまでに合理的だった。彼にとって、戦いのない遠征にリィナたちを同行させるリスクを冒す価値はない。それがどれほど友邦を救うための「慈悲」であったとしても、自身の力を安売りするつもりはなかった。彼の脳裏には、これまで背負ってきた数々の「理外の依頼」の記憶が瞬時に過ぎった。政治的な火種になりかねない案件を、これ以上安易に引き受けるつもりはない──その判断は、彼なりの、静かな自制であった。
だが、その合理的な防壁に、背後から予期せぬ亀裂が走った。
「アレン様。……農家の方々が困っているのです。アレン様の《魔術消去》なら、泣いている大地を救えるかもしれません」
リィナが、自身の胸元を痛みを分かち合うように強く握りしめ、一歩前へ出た。淡い青色の瞳には、アレンへの全幅の信頼と、困っている人々を見捨てられない彼女らしい献身が宿っていた。彼女の脳裏には、ニュース映像で見た、黄金のパンを頬張り笑う市民たちの顔が浮かんでいた。あの笑顔の裏に、もし本当に何か恐ろしいものが潜んでいるのなら──その想像だけで、リィナの胸は締めつけられるように痛んだ。
「リィナの言う通りですわ。食料供給の停止は、ガルディアの経済にも小さからぬ打撃を与えますわ」
セリスが金髪を凛となびかせ、レイピアの飾緒を指先で弄びながら言葉を繋いだ。その青色の瞳には、一国の騎士としての判断と、それ以上に、何か別の「期待」が揺らめいている。彼女は努めて冷静な声音を保ちながらも、口角がわずかに、それでいて確実に持ち上がっていくのを、自分でも抑えきれずにいた。
「それに……聞き及びましたの。フェルシアには、この時期にしか口にできない『黄金小麦の熟成パン』があるそうですわ。焼き立ては、筆舌に尽くしがたい香りと聞きます。……さらに最高級の魔力牛から取れる『極上ステーキ』も、産地でしか味わえない絶品だとか」
パン、ステーキ。
その単語が室内に落ちた瞬間、アレンの眉が微かに、しかし確かに動いた。空気の温度が、ほんの僅かに変化したように感じられるほどの、小さな、けれど決定的な揺らぎだった。
「サツキ。お前はどう思う」
アレンは最後の一線として、最も実直な武人へ視線を投げた。彼女ならば、このような甘言に惑わされることはないと信じて。長年の付き合いの中で、サツキが誠実さを何よりも重んじる性分であることをアレンは知悉していた。だからこそ、彼女の答えだけは自身の判断を後押ししてくれるはずだと、心のどこかで確信していたのだ。
しかし、サツキ・ハートフィールドは、薙刀の石突を静かに石床に響かせ、じっとアレンを見つめ返していた。彼女の頬は僅かに上気し、喉が小さく動く。そして、消え入るような、けれど魂の底から絞り出したような本音を漏らした。
「……食べたい、です」
「…………」
最強の魔術師を沈黙させたのは、帝国の軍勢でも、深層の守護獣でもなかった。三人の誓導者たちが放つ、輝かんばかりの期待に満ちた眼差しである。リィナの献身、セリスの知性、サツキの誠実。その全てが、今や「フェルシアの美食」という一点において完璧な円環を成していた。エリシアもまた、その場のやり取りをどこか微笑ましく見守りながら、机の上で頬杖をつき、次にアレンがどう出るかを静かに待っていた。
アレンは深く、天を仰ぐように溜息を吐き出した。三つの楔に繋ぎ止められた彼の理外の力は、どうやら胃袋という現実的な重力には逆らえないらしい。窓の外では、庭園の枝先が春の風にそよぎ、柔らかな陽光が室内の緊張を少しずつ解きほぐしていくようだった。
「……分かった。準備をしろ。フェルシアへ向かう」
アレンの極低温の承諾。エリシアの顔に、安堵と、わずかな悪戯っぽさを孕んだ微笑が広がった。
「感謝するわ、アレン殿。……フェルシアの王も、あなたの来訪を心待ちにしているはずよ」
魔軌士局には、形式上の「越境任務」としての登録が速やかに完了した。救世主としての誇りと、三人の女性たちの食欲を背負い、理外の騎士たちは、黄金の小麦が波打つはずの食料供給国へと、その足を踏み出すことを決めた。
窓外では、春を待つ風が宮殿の庭園を吹き抜けていった。その風の先にあるのが、再建の光か、あるいは何者かが仕掛けた断罪の罠か。それを知る由もないまま、アレンはアーク・リンクに自身の署名を無機質な光と共に刻み込んだ。指先が空間を滑るたび、微かな電子音が室内に響き、承諾の証として青白く点滅した。リィナたちは互いに顔を見合わせ、ようやく安堵の息を漏らす。サツキだけは既に、来るべき食事への期待に、静かな武人の瞳を珍しく輝かせていた。




