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世界最大の食糧供給国、フェルシア農業国の広大な農地。そこでは今、文字通りの「破綻」が音もなく産声を上げていた。
王都フェルシアナ郊外にある、モデル農場の一角、第一試験農場。黄金色に波打つはずの小麦の穂が、不自然な蒼白い燐光を帯びて激しく震えていた。管理していた若き魔導農技師長が、アーク・リンクの測定アラートに顔を強張らせ、その場に跪く。液晶に浮かぶ数値の羅列は、彼がこれまで見てきたどのグラフとも似ておらず、ただ右肩上がりに天井知らずの角度で伸び続けていた。
「な、なんだ……魔力密度が、計算値を無視して上昇している……!?」
次の瞬間、パァンという乾いた音と共に、一株の小麦が弾け飛んだ。それは物理的な爆発ではない。過剰に蓄積され、「重く」なりすぎた魔力が、植物という脆弱な器を内側から食い破ったのだ。霧散した魔力の残滓が、肺に粘りつくような不快な不協和音を伴って、静かな農場に漂った。小規模な魔力暴発。それは、黄金の豊穣が「深淵の毒」へと変質し始めた、最初の、そして決定的な警鐘であった。
技師長は震える指先で緊急連絡用の端末を操作し、次々と弾ける穂の群れから距離を取った。異変は一株では終わらなかった。畦道の向こうでも、パァン、パァンという乾いた破裂音が、まるで連鎖するように続いていく。彼はその光景を、悪夢の始まりとしてただ呆然と見つめることしかできなかった。
その報告を、フェルシア魔力農業研究所の最深部で受け取ったバルトロメウス・エルド教授は、冷え切った執務室の椅子に深く沈み込んでいた。
「……早すぎるな。人類の回路を書き換えるには、まだ調律が足りていない」
ホログラムウィンドウに映し出される、各地の農地の汚染グラフ。それは、彼が一年前から周到に準備してきた新型肥料が、自身の想定を超えた速度で「系統変質」を引き起こしていることを示していた。折れ線は複数の農場で同時に立ち上がり、まるで大地そのものが一つの生命体として悲鳴を上げているかのようだった。
バルトロメウスの瞳に宿るのは、犠牲者への自責ではない。自らの「救済(実験)」が露見し、完成前に断罪されることへの、野生動物にも似た峻烈な防衛本能であった。アウロス王の疑念が自分に向くのは、もはや時間の問題だ。彼は指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、灰白色の乱れた髪を苛立たしげに掻き上げた。
(私が捕まれば、人類の『浄化』は止まってしまう。……『黒き災厄』を迎え入れるための、この尊い調律を、無知な者たちの法で汚させるわけにはいかない)
彼は震える指先でコンソールを叩き、一つの秘匿ログを呼び出した。それは、セレノア王国の研究権限を用いて魔軌士局から密かに抽出した、ある特定の「個人」に関する魔力データである。
『魔軌士No.0 ── アレン・ヴァルグレイ』。
画面には、事務的に計測された際の実測魔力波形が、極めて詳細に表示されていた。無数の波形が滑らかな曲線を描き、常人のそれとは比較にならない密度で並んでいる。教授はその数値の列を、まるで宝物でも眺めるかのように、指先でゆっくりとなぞった。
バルトロメウスの口元に、歪な笑みが刻まれる。
「アレン・ヴァルグレイ。……貴殿の力は、もはや人間の枠を完全に逸脱している。その『不条理』こそが、私の罪を塗りつぶすための、最高の絵具となるのだ」
彼は約二年前、ヴァルゼン帝国からレンタルした三十二階層ボス魔石のデータを、アレンの固有波長へと強引に書き換え始めた。肥料に含まれる「深淵の泥」の周波数を、アレンの魔力署名と「百パーセント一致」するように精密に改ざんしていく。指先が滑らかにコンソールの上を動くたび、真実は少しずつ、しかし確実に、別の形へと塗り替えられていった。
「人類の穢れた循環系は、一度根元から破壊されねばならない。この深淵の『光』によって、全てを浄化してやろう……」
冷たい研究室に、一人の学者の理性が音を立てて崩壊していく笑い声が響いた。壁一面に並んだ魔力測定器具が、その狂気の昂ぶりに呼応するように不気味な警告音を上げ、遠く保管庫に眠る魔石が放つ蒼い燐光が、バルトロメウスの影を長く、黒く、壁に映し出していた。
「アレンという史上空前の怪物が、迷宮深層から未知の汚染源を持ち出し、それを意図的にフェルシアの大地に撒き散らした……。そう定義してしまえば、全ての理屈は繋がる。世界中から不信を買っている貴殿が『汚染者』として断罪される間に、私は浄化の続きを完遂させてもらう」
端末から放たれる青白い光が、教授の灰白色の髪を不気味に照らし出す。彼の指は止まることなく動き続け、鑑定データの改竄は着実に、そして冷徹に完成へと近づいていった。それは、一人の狂信者が保身のために、世界最強の守護者を「大陸規模のテロリスト」へと仕立て上げるための、冷徹な復讐の設計図であった。
「さあ、理外の零番。……貴殿のその重すぎる魔力を、今度は世界の『恐怖』のために貸してもらおうか」
深夜の研究所に、キーボードを叩く硬質な音だけが、弔鐘のように響き続けていた。窓の外では、収穫を待つはずだった黄金の穂が、今なお不気味な燐光を纏いながら静かに震え続けている。真実が「汚名」によって丁寧に上書きされ、救世主を地獄へと誘うための罠は、完成の瞬間を静かに待っていた。教授は最後に一度、アレンの魔力波形データを画面いっぱいに拡大すると、獲物を見定めた獣のような満足げな吐息を漏らし、静かに保存ボタンへと指を滑らせた。




