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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第27章:豊穣の陥穽(かんせい)

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約半年前の女神歴二一九七年、九月中旬。

世界最大の食糧供給国、フェルシア農業国の王都フェルシアナ郊外に広がる「第一試験農場」は、かつてない神々しい輝きに包まれていた。


視界の端から端までを埋め尽くすのは、収穫を待つ見事なまでの黄金色の小麦。だが、その輝きは従来の品種とは決定的に異なっていた。穂の一粒一粒が、秋の陽光を蓄えた宝石のように透き通り、風にそよぐたびにサァ……という清涼な音とともに、目に見えぬほど微細な蒼い燐光を大気中へと振り撒いている。


「──信じられぬ。これは、まさに神が授けた奇跡か」


麦畑の畦道あぜみちに立ち、国王アウロス・フェルシアは震える手で一房の穂を掬い上げた。掌から伝わってくるのは、刺すような魔力の刺激ではなく、自身の魔力循環が洗われるような、澄み渡った清浄な拍動。アウロスは無意識のうちに、胸元に下げた「はじまりの土」が入った小瓶を握りしめていた。瓶の中の土は、慈雨を吸ったばかりの肥沃な褐色を保ち、王の掌を穏やかに温めている。


「陛下、これが科学の導き出した正解です。新型肥料アグリ・セレノアは、土壌に含まれる不純な魔力を根元から排出し、大地の循環を純白へと書き換えることに成功いたしました」


傍らに立つバルトロメウス・エルド教授が、眼鏡の奥で薄い青色の瞳を満足げに細めた。その背後には、セレノア王国から派遣された魔術理論監察官が、手元のアーク・リンクに映し出される異常なまでの高数値を前に、驚愕の色を隠せずに立ち尽くしている。


「教授……。この魔力密度の安定感、そして不純物の少なさ。学術国家セレノアの理論は、ついに農業のことわりすらも書き換えてしまったのですね」


監察官の賞賛を受け、教授は懃懃無礼な一礼を返した。その足元、管理を担当する若き魔導農技師長が、測定器を地面に突き立てたまま、感極まった声を上げた。


「数値だけではありません、陛下! 私もこの小麦で作った試作のパンを口にしましたが、食べた瞬間に体が浮き上がるように軽くなり、魔力回路のノイズが消えていくのを感じました。……これはもはや、ただの作物ではありません。人類を一段階上へと引き上げる、聖なる糧です!」


アウロス王は、地平線まで続く黄金の海を見渡した。頬を撫でる風は乾いた土の匂いを孕み、遠く水路の水音が微かに響いている。長年、豊穣の女神に祈りを捧げてきた王にとって、この光景はまさしく神託そのものに映った。


「……素晴らしい。教授、すぐに全土への普及計画を策定せよ。フェルシアの黄金を、世界を救う真の光とするのだ」


この時、王たちの瞳を焼いていたのは、来るべき繁栄への希望であった。誰も気づいてはいなかった。その美しすぎる黄金色の下で、深淵の泥がじわりと、しかし確実にこの国の血管を侵食し始めていたことに。教授の背後にたなびく蒼い燐光は、収穫の喜びに沸く民の誰の目にも、ただの祝福の光としか映らなかった。



そして、現在、女神歴二一九八年、三月上旬。

西大陸ガルディア公国の首都ガルディアスは、長く峻烈な冬の終わりを告げる、柔らかな春の予感に包まれていた。宮殿の広大な庭園では、雪解け水を吸った木々の芽がわずかに膨らみ、テラスの白いテーブルを淡い陽光が温めている。


深古水環宮、四十階層の踏破という歴史的な偉業を成し遂げたアレン・ヴァルグレイたちは、公女王エリシアから提供された宮殿別邸にて、静かな休息のときを過ごしていた。


「アレン様、お茶のお代わりはいかがですか?」


リィナ・フェルウェンが穏やかな所作でポットを傾けた。立ち昇るハーブの香りが、かつて迷宮の深層で肺を焼き焦がした不協和音を、心地よい日常の彩りへと塗り替えていく。アレンはカップを受け取ると、無言のまま黒い瞳を細めて中身を口にした。隣ではサツキ・ハートフィールドが、アダマンタイトの薙刀《星凪ほしなぎ》を膝に横たえ、布で丹念にその刃を拭っている。窓の外では、庭園を渡る風が芽吹きかけた枝先をわずかに揺らしていた。


その平穏な空気を、扉を開けて現れたセリス・ヴァレンティアの凛とした声が破った。


「皆様、少しよろしいかしら? フェルシアから、少々奇妙なニュースが届いていますわ」


セリスが手元のアーク・リンクを操作すると、空間に鮮やかなホログラムウィンドウが投影された。映し出されたのは、フェルシア農業国の活気あふれる市場の光景だ。


『──今、王都フェルシアナで爆発的な人気を呼んでいるのが、この新作物『黄金小麦』です! 食べた瞬間、身体から不純物が消え、『魔力が軽くなる』と話題です! まるで全身を洗浄されているみたいだと、周辺諸国からも買い付けが殺到しています!』


画面の中では、黄金色のパンを頬張る市民たちが、かつてない活力に満ちた笑顔を見せていた。


「魔力が軽くなる野菜……不思議ですね。リフレッシュ効果のあるハーブのようなものでしょうか」


リィナが淡い青色の瞳を瞬かせ、興味深げに画面を覗き込む。サツキもまた、メンテナンスの手を止め、窓から差し込む光に透ける小麦の黄金色をじっと見つめた。


「……美味しそうです」


武人らしい短い、しかし切実な本音。だが、その和やかな空気を、アレンの低く冷徹な声が断ち切った。


「魔力は生命の根源だ。それが『軽くなる』ということは、循環系に何らかの外部干渉が起きている証拠だ」


アレンは背もたれに身体を預け、投影された映像を射抜くような眼差しで見据えた。彼の脳裏には、つい数日前に肌で受けた、あの四十階層の「深淵の重圧」が鮮明に蘇っていた。迷宮の深層へ向かえば向かうほど、魔力は高密度に圧縮され、質量にも似た物理的な重みを増していく。それがこの世界の理だ。喜びに沸く市民の笑顔と、あの重圧の記憶とが、アレンの中で不穏に結びついていく。


「アレン様? 何か気になることでも?」


リィナの問いに、アレンは組んでいた手を解き、独り言のように静かに告げた。


「不自然な現象には、必ず裏がある」


「……相変わらず冷徹ですわね。せっかくの平和なニュースですのに」


セリスは肩をすくめ、アーク・リンクを閉じた。ホログラムの光が消えると、テラスにはまた穏やかなハーブの香りと、雪解けを告げる春の風だけが残された。だが、アレンの漆黒の瞳に浮かんだ僅かな翳りは、誰にも消えることなく残り続けていた。


だが、アレンの予感は的中する。この時、豊穣の国フェルシアの大地では、既に深淵の泥が静かに溢れ出していた。


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