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約二年前の女神歴二一九六年、八月。
西大陸の喧騒から遠く離れた東大陸南部、学術国家セレノア王国の王都セレニス。その知の象徴たるセレニス魔導生態学院の地下最深部には、外界の季節の巡りすら拒絶する、凍てついた静寂が横たわっていた。
無機質な白亜の壁に囲まれた特別研究室。最新の魔導空調が吐き出す微かな冷気と、大型演算端末の冷却ファンが奏でる断続的な唸りだけが、この閉ざされた空間の拍動となっていた。部屋の中央、幾重もの魔力遮断障壁に守られた強化ガラス容器の中に、その「不条理」は鎮座していた。
ヴァルゼン帝国から研究用として期間限定でレンタルされた、迷宮『帝国魔導要塞』三十二階層の守護獣魔石。
蒼い結晶は、外部の魔導照明を吸い込み、代わりに出所不明の不気味な燐光を放っている。それは単なるエネルギーの塊ではない。結晶の奥底からは、深淵の泥のように重く、そして肺の奥を直接掴むような高密度の魔力波形が、ドクン、ドクンと心臓の鼓動に似た不協和音を伴って室内に漏れ出していた。
「……これだ。これこそが、私が追い求めていた『真理』の姿だ」
バルトロメウス・エルド教授は、灰白色の髪を乱したまま、取り憑かれたようにモニターを見つめていた。五十二歳の顔に刻まれた深い皺には、連日の不眠不休による疲労が滲んでいるが、その薄い青色の瞳だけは、実験回路に流れる過負荷の電流のように、異常なまでの光を宿している。
ホログラムウィンドウに映し出される魔力循環グラフ。現代魔術理論が定義する「清浄な魔力」の波形が、この三十二階層の魔石が放つ圧倒的な圧力の前に、児戯のような細い線となって掻き消されていく。壁一面に並んだ測定器具の針が、その圧に呼応するように小刻みに震え続けていた。
バルトロメウスの指先が、空中に浮かぶデータを震えながらなぞった。
「人類が文明という名の下に作り上げた、あまりにも薄汚れた魔力循環。現代魔術という名の枷によって歪められ、純粋さを失った現代の理……。それに引き換え、この深淵の魔力はどうだ。なんと重く、なんと純粋で、なんと美しいのか」
彼が心酔しているのは、単なるエネルギーの出力ではない。この魔力の先にある、封印されし『黒き災厄』の予兆──。教授は、この圧倒的な不協和音こそが、人類が還るべき本来の調律であるという狂信の淵に、既に片足を沈めていた。窓のない研究室に、外界の時間の感覚はとうに失われている。彼にとっての一日は、もはや太陽の巡りではなく、モニターに映るこの波形の脈動そのものによって刻まれていた。
だが、この魔石はあくまで帝国からの預かり物だ。研究期間が過ぎれば、ヴァルゼン帝国の軍務院へと返却せねばならない。
バルトロメウスは、眼鏡を押し上げ、口元に歪な笑みを刻んだ。
(返却してしまえば、残るのはデジタル化されたログだけだ。……その時、元データを私の都合の良いように書き換えれば、この実験の真実に辿り着ける者は、セレノアにも帝国にも存在しない……)
彼は端末のコンソールを叩き、一つの新規プロジェクトを立ち上げた。
画面には、後に世界最大の農業国を地獄へと叩き落とすことになる、偽りの福音の名が打ち出される。
新型肥料、プロジェクト《アグリ・セレノア》。
打ち込まれた文字列を、教授は幾度も指先で撫でるようにして確認した。まだ何の実体も持たないその名称が、これから紡がれる悲劇の設計図の第一頁となることを、この時の彼はむしろ誇らしげに噛み締めていた。
「人類の穢れた循環系は、一度根元から破壊されねばならない。この深淵の『光』によって、全てを浄化してやろう……」
冷たい研究室に、一人の学者の理性が音を立てて崩壊していく笑い声が響いた。壁一面に並んだ魔力測定器具が、その狂気の昂ぶりに呼応するように不気味な警告音を上げ、三十二階層の魔石が放つ蒼い燐光が、バルトロメウスの影を長く、黒く、壁に映し出していた。その影は、まるで彼自身の内側からゆっくりと這い出してきた何かのようで、壁の上で不規則に揺らめきながら、彼の背後にいつまでも張り付いていた。
豊穣を約束するはずの黄金の小麦が、人類を死に至らしめる「深淵の泥」へと作り替えられるための最初の一歩は、この知の聖域の暗闇の中で、静かに、そして確実に出し抜かれたのであった。地上ではまだ誰一人として、この地下の密室で始まった狂気の胎動に気づく者はいなかった。




