26-11
巨大な機動要塞、リヴァイアサン・メカニカが蒼い光の粒子となって深海へ溶けていくと、その後に残されたのは、肺の奥まで凍てつかせるような静寂だけだった。アレン・ヴァルグレイが維持する魔力ドームの外側では、主を失った水が渦を巻き、激しい水流が石壁を叩いている。その濁流の底、ゆっくりと沈んでいく一つの「結晶」を、サツキ・ハートフィールドが逃さず捉えた。
「……アレン様。魔石、確保しました」
サツキは《星凪》を背負い直すと、水中に手を伸ばし、大人の頭部ほどもある巨大な蒼い魔石を抱え上げた。それは暴力的なまでの魔力密度を誇り、周囲の水をそれ自体の拍動で波打たせている。掌に伝わる重みは、これまで運んできたどの魔石とも異なる、圧し掛かるような存在感を持っていた。アレンはその輝きを無表情に見つめると、短く「往くぞ」とだけ告げた。
一行は水に満ちたボス部屋を後にし、奥にある四十一階層へと続く巨大な石扉を潜り抜けた。境界線を越えた瞬間、背後を閉ざした扉によって水の質量は物理的に遮断され、通路からは湿り気こそ残るものの、水そのものは跡形もなく消え失せた。深層特有の濃密な魔力ノイズが漂う静かな回廊を、一行は四十一階層の安全地帯を目指して黙々と歩んだ。
ほどなくして辿り着いた安全地帯には、これまで見てきた階層と同じく、無機質な石柱が佇んでいた。アレンはその場所で、転移用ポイントを記憶した。
「一階層へ戻る。全員、俺に触れろ」
リィナ、セリス、そして魔石を抱えるサツキが、慣れた様子でアレンの肩や腕に手を置いた。アレンが意識を集中させ、一階層安全地帯の座標を呼び出す。
《空間転移》
パチン、と乾いた音が響いた瞬間、視界を支配していた深層の陰影が、純白の光へと反転した。鼓膜を圧迫していた重苦しい魔力圧が消失し、代わりに一階層の、地上に近い乾燥した空気が肺を満たした。一行は一階層の出口を通り、ようやくガルディア公国の冷たい冬の風が吹く地上へと生還した。
宮殿へ戻る道すがら、一行は魔軌士支局へと立ち寄った。アレンは道中で得た三十一階層から四十階層までの魔石を事務的に提出した。一度にこれほどの深層魔石が市場に流れれば価格の暴落を招きかねないが、アレンは支局長に対し、事務的な、しかし逆らうことを許さぬ冷徹な威圧を加えて口を封じ、正当な対価としての預かり証を受け取った。支局の職員たちは、目の前に積まれていく魔石の総量に言葉を失い、書類を扱う指先を何度も震わせていた。
宮殿の公女王執務室では、エリシア・ヴァルステイン・ガルディアが、夕闇の迫る窓外を眺めていた。扉が開かれ、サツキが恭しく一歩前へ出る。
「陛下。……アレン様から、陛下への『プレゼント』です」
サツキがテーブルに置いた魔石は、室内の魔導照明を明滅させるほどの光を放っていた。エリシアが息を呑むのを余所に、アレンは漆黒のコートの襟を正し、淡々と告げた。
「カザリアでは世話になった。『深古水環宮』四十階層のボス魔石だ。……これがあれば、公国の仕事も少しは楽になるだろう」
アレンにとっては知人への「返礼」に過ぎなかった。だが、その場に流れた沈黙は、アレンの想定よりも遥かに重く、鋭かった。
「……アレン様、陛下。失礼を承知で申し上げますわ」
セリス・ヴァレンティアが、戦慄を隠さぬ声で進み出た。
「陛下、これは単なるプレゼントで済む話ではありませんわ。四十階層の守護獣魔石。二十一階層からの魔石が『生活の光』なら、これは帝国の『帝国魔導要塞』をも凌駕し得る、文字通りの戦略的抑止力……『核』にも等しい燃料です。……これをガルディアが所有したと知れば、他国はこれを救済ではなく、宣戦布告なき『最悪の軍拡』と見なすはずですわ」
セリスの指摘は、アレンという史上空前の「核」に、それを動かすための「燃料」が揃ってしまった外交的危うさを的確に突いていた。エリシアは苦渋を瞳に沈めながらも、アレンから贈られたあまりに重すぎる慈悲を見つめ、静かに微笑んだ。
「……ええ。それでもわたくしは、あなたからのこの『重石』を受け取りますわ、アレン殿。公女王として、そして友として」
その微笑みの奥には、これから背負うことになるであろう外交的重圧への覚悟が、静かに滲んでいた。エリシアは魔石が放つ淡い光に指先をそっと触れさせ、その熱を確かめるように目を閉じた。
報告を終え、アレンは一人宮殿のベランダへと出た。
夜風が、アレンの長身を冷たく撫でていく。眼下にはガルディアスの美しい街並みが広がり、電力を得た街の灯が宝石のように瞬いていた。カザリアで戦火を止め、迷宮で深淵を征服し、公国に最強の盾を与えた。
だが、彼が「救う」ために力を振るうたびに、世界は感謝ではなく、得体の知れない恐怖と不信に塗り潰されていく。三十九階層で目にした「五十八」という数字の意味。二二〇〇年に訪れるという災厄。その足音に耳を貸す者はおらず、人々はただ、目の前の圧倒的な力に怯えることに汲々としている。
「……疲れたな」
アレンが一人、夜の静寂に溶けるように呟いた。その言葉は誰に届くこともなく、冬の風にさらわれて消えていった。
ベランダの手すりに置かれたアレンの手は、指先まで冷え切っていたが、彼自身はその冷たさにさえ気づいていないようだった。眼下を彩る無数の灯火の一つ一つに、名も知らぬ市民たちの日常が息づいている。その平穏を守るための力が、同時に世界そのものを揺らがせる矛盾を、アレンはただ静かに受け止めるしかなかった。星の見えない曇り空の下、宮殿の灯りだけが、彼の背中を淡く照らし続けていた。
理外の力は、望まぬ波紋を広げ続け、世界の均衡をさらなる深淵へと引き摺り込もうとしていた。窓の外では冬の星座が冷たく輝き、新たな深淵への遠征を待つ静寂が、深く、重く降り積もっていた。




