26-10
深古水環宮、第四十階層。最深部へと続く古の防魔扉が、地響きを立ててその重い口を開いた。一歩足を踏み入れた先、アレン・ヴァルグレイたちの視界を占拠したのは、これまでの迷宮の尺度を根底から塗り替える絶望的な巨影であった。
「……巨大、ですわね。迷宮の主というより、深海に沈む機動要塞ですわ」
セリス・ヴァレンティアがレイピア《煌光穿》を強く握り直し、驚愕に声を震わせた。蒼き闇の奥から姿を現したのは、全長百メートルを超える巨大な龍型の古代自動人形。守護獣『リヴァイアサン・メカニカ』。その鋼鉄の鱗は深淵の微かな魔光を吸い込んで鈍く沈み、無機質な赤色の監視孔が、侵入者を排除すべき「異物」として冷酷に捉えていた。
グォォォォォォォオオオン!!
要塞の咆哮が水圧を物理的な質量として震わせ、アレンが維持する魔力ドームを激しく揺さぶる。アレンは漆黒の瞳を細め、自身の内側で指数関数的に膨れ上がる魔力の疼きを強引にねじ伏せていた。これまでの階層とは明らかに桁違いの魔力量が、目の前の巨躯から発せられているのを、アレンは肌で感じ取っていた。
「来ます、アレン様!」
リィナが鋭く叫ぶ。リヴァイアサンがその巨大な顎を開くと、口内から放たれたのは熱線ではなく、絶対零度の魔力波動──『魔力凍結』であった。
「目障りですわ! 《閃光砲》!」
セリスが迎撃の複合魔術を放つ。だが、光と火の融合ビームはリヴァイアサンの波動に触れた刹那、物理的な衝撃を生むことさえ許されず、空間ごと「結晶化」して砕け散った。
「……術式が、凍りつきましたの……!? わたくしの魔術構成そのものが、概念的に干渉を受けていますわ!」
驚愕に顔を蒼くしたのはセリスだけではない。リィナが展開する《空間隔絶結界》の膜までもが、凍てつく波動に晒されて白く変色し、不吉な音を立てて剥落していく。現代魔術の「理」である術式そのものを凍らせ、無効化する古代の権能。かつて三十階層でサツキが味わったあの絶望が、より強固な形となって一行を飲み込もうとしていた。
リィナは剥落していく護膜の欠片を見つめながら、背筋を這い上がる寒気に耐えていた。魔力そのものが凍りついていくという感覚は、これまで経験したどの戦闘にも似ていなかった。彼女は必死に《三重魔導護膜》の再展開を意識に走らせながらも、目の前の敵が持つ「理を殺す力」の異質さに、静かな戦慄を覚えずにはいられなかった。
「……っ、二度も、同じ轍は踏まない!」
その極限の静寂を、凛とした声が切り裂いた。サツキ・ハートフィールドが、重厚な石床を蹴って前へ出た。彼女には《星凪》が握られている。
サツキは深く、長く、自身の呼吸をアレンの「三拍子の鼓動」に同期させた。かつて家伝の《朧月》が「ただの鉄の棒」へと成り果てた屈辱の記憶が脳裏を掠めるが、今の彼女の掌に伝わる手応えは、あの時とは決定的に異なっていた。
アレンから流れ込む理外の魔力が、《星凪》の内部に組み込まれたトラヴァンの特殊回路を介して、蒼い燐光へと変換される。サツキは正面から迫りくる絶対零度の波動に対し、迷いなくその刃を振り下ろした。
「はぁぁぁッ!!」
キィィィィィィィィィィン!!
鋭い衝突音が響き渡る。《星凪》の圧倒的な回路の安定性が魔力凍結の干渉を跳ね除け、アダマンタイトの鋭利な刃が、凍りついた空間そのものを物理的に「叩き切った」。裂かれた波動の隙間を縫い、サツキは水圧を置き去りにする速度で肉薄する。かつて届かなかった場所へ、彼女の武技が初めて牙を剥いた。
「……よくやった、サツキ。あとは俺がやる」
サツキが切り拓いた一瞬の空白を突き、アレン・ヴァルグレイが静かに、しかし抗いようのない圧力を伴って歩み出た。彼はリヴァイアサンの咆哮を無機質な瞳で見据えると、右手の指先を軽く弾いた。
パチン。
《魔術消去》。
目に見えぬ無属性の干渉波が水中で拡散した刹那、空間を支配していた凍結の権能が、根源から崩壊した。リヴァイアサンの周囲に展開されていた不可視の防壁が、アレンの「零」の力の前に、ただの情報へと還される。
巨躯をくねらせ、要塞が最後の突進を仕掛けてくる。だが、アレンはその突撃を避けることさえしなかった。彼は最短距離で踏み込み、要塞の心臓部──巨大な魔力核が露出した胸元へと、掌を吸い付くように添えた。
「……固定。──零距離」
《衝撃制御》。
ドォォォォォォン!!
水中で起きたとは思えぬ、内臓を揺らすような重低音の衝撃波が迷宮を震撼させた。アレンの手の平から放たれた「質量なき衝撃」は、リヴァイアサンの強固な装甲を透過し、内部の古代機構のみを正確無比に粉砕した。
「ギ、ギギ……ッ」
龍の紅い監視孔から光が失われ、その巨躯が断続的な魔力暴発と共に激しく身震いする。全長百メートルの古代要塞は、自身の存在を繋ぎ止める術式を失い、蒼き深淵の底へとゆっくりと沈んでいった。
リィナは崩れゆく巨躯を見つめながら、剥落しかけていた護膜を再び整え直す。彼女の指先はまだ僅かに震えていたが、それは恐怖からではなく、目の前で起きた圧倒的な光景への畏怖に近いものだった。セリスもまた、レイピアを鞘に収めたまま、崩壊していく要塞の残骸を無言で見つめ続けていた。三人の誓導者それぞれの胸に、この深淵で目にした「理外の力」への確信が、静かに、しかし確実に刻み込まれていた。




