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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第26章:世界の波紋

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26-9

深古水環宮、三十九階層。

そこはもはや、光という概念すらも水圧に押し潰された、深淵の静寂に沈む監獄であった。アレン・ヴァルグレイが維持する魔力ドームの境界線では、外部の殺人的な水圧が「キィィィィィィン」と鼓膜を震わせる高周波の摩擦音を絶え間なく上げている。ドームの内側を照らすのは、リィナが維持する《空間隔絶結界スペース・セパレーション》の淡い蒼光と、セリスの指先から漏れる微かな魔力の燐光だけであった。


「……アレン様、また来ますわ」


セリス・ヴァレンティアがレイピア《煌光穿グロリアス・ライト・ピアース》を構え、ドームの境界線の先を睨んだ。暗闇の奥から、無機質な紅い眼光が一つ、また一つと点滅を開始し、矢のような速度でこちらへと殺到する。


古代自動人形オートマタ──『ディフェンス・センチネル』。

それらは、これまでの階層で見られた魚型や蟹型といった生物の模倣を完全に止めていた。ただ侵入者を排除するためだけに最適化された、冷徹な幾何学模様の集合体。銀色の機体が放つのは、命の熱量ではなく、プログラムされた殺意の波長であった。セリスはその無機質な佇まいに、これまでの敵とは異質な「意思なき悪意」を感じ取り、僅かに背筋を強張らせた。


「……消えていろ」


アレンはドームの端へ無造作に歩み寄り、指先を軽く弾いた。

パチン、と乾いた音が水圧の唸りを一瞬だけ打ち消す。


魔術消去ディスペル・アーツ》。

目に見えぬ無属性の干渉波が水中で波紋となって拡散した刹那、センチネルたちが展開しようとした迎撃術式が、ガラス細工のように根源から崩壊した。光を失い、ただの鉄の塊へと成り果てた機械人形の隙間を、蒼い燐光が駆け抜ける。


「はぁぁぁッ!!」


サツキ・ハートフィールドが《星凪ほしなぎ》を一閃させた。アレンの魔力循環を受けたアダマンタイトの刃が、水の粘性を力任せに切り裂き、センチネルの強固な装甲を紙細工のように両断する。物理的な衝撃と切断。魔術による抵抗を奪われた古代の番人たちは、なす術もなく沈黙し、巨大な魔石だけをその場に残して光の粒子へと還っていった。


「魔石、回収しました。……アレン様、あそこに石碑が」


サツキが指し示したのは、四十階層へと続く階段の手前に佇む、巨大な石碑であった。アレンはドームを維持したまま、その碑文へと近づく。風化した石肌には、現代の共通語ではない、歪んだ文字の数刻が刻まれていた。表面には長い年月を物語る亀裂が幾筋も走り、水中に沈んだ古の記録が今なお朽ちずに残っていることそのものが、この迷宮の異常な魔力保存性を証明しているようだった。


「……『五十八』……?」


アレンがその数字を読み上げると、隣で魔力波長を注視していたリィナが小さく息を呑んだ。

この水環宮が何階層あるのか、それはガルディア公国が百年をかけて調査しても解明できなかった謎である。アレンが以前到達した三十一階層ですら歴史を塗り替える偉業であったが、目の前の碑文が示す真実は、その認識を塗り替えるものだった。


「五十八階層……。サハリスで攻略した『幻砂冥廊』の五十二階層を上回る深淵ですわね」


セリスはレイピアを収めると、戦慄というよりは、冷徹な分析官のような瞳で石碑を見つめた。

「公国が国家予算を投じて百年かけて調査してきた記録が、まだ……この迷宮の折り返し地点に過ぎなかったとは。古代の設計図は、わたくしたちの想像を遥かに超えていますわ」


「……だろうな。階層が進むごとに、敵の性質が純化している。生物の形を模す必要すらなくなった防衛機構。……迷宮そのものが、俺たちを『異物』として排除しようとしている」


アレンは足元の暗い階段を見つめた。漆黒の瞳には、驚愕も絶望も宿っていない。ただ、そこに厳然として存在する「不条理」を冷徹に見据える、観測者の光だけがあった。


かつて第一召喚された時のアレンは、魔力の気配すら読めぬままこの深淵を這っていた。だが、今の彼には分かる。この先に眠るのは、人類が手にしてはならない、古代の禁忌そのものだということが。そして、二二〇〇年に訪れるという「黒き災厄」の鼓動が、この迷宮の底からも微かに響いていることを。


リィナはその石碑の前で佇むアレンの背中を見つめながら、胸の奥にひそかな不安を抱えていた。あの日、公女王執務室で触れてしまった終焉のビジョンと、この迷宮の底に眠る古代の警鐘とが、どこか同じ根から伸びているような、拭いきれない予感があったからだ。だが、それを今この場で口にすることはできなかった。彼女はただ静かに《空間隔絶結界スペース・セパレーション》の維持に意識を戻し、アレンの背中を見守り続けた。


「……迷っていても始まらない。四十階層のボスを叩くぞ」


アレンの言葉に、三人の誓導者が力強く頷いた。最強の魔術師を繋ぎ止める三つの楔は、未知なる真実へと続く階段を、迷いなく下り始めた。


水圧の唸りが、階段の先に潜む何かを予告するように、一段と重く響いていた。蒼き深淵の底、世界を揺るがす戦慄の幕開けは、すぐ目前に迫っていた。サツキは石碑に刻まれた歪んだ文字を最後にもう一度見やり、その意味を理解できぬまま、確かな緊張だけを胸に灯して階段の闇へと足を踏み入れた。誰も言葉にはしなかったが、この先で待ち受けるものが、これまでの階層とは一線を画す何かであることを、四人はそれぞれの形で感じ取っていた。


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