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深古水環宮、三十六階層。
視界を埋め尽くすのは、もはや液体という定義すら危ういほどに圧縮された、深淵の藍色であった。アレン・ヴァルグレイが維持する魔力ドームの境界線では、理外の魔力と数千トンの水圧が絶え間なくせめぎ合い、火花のような微細な燐光が、暗い水底へと絶えず降り注いでいる。ドーム内部には、地上と変わらぬ静寂が保たれているが、その透明な壁のすぐ向こう側には、あらゆる生命を瞬時に圧殺する死の質量が渦巻いていた。
アレンは、自身の内側からせり上がる魔力の疼きを逃がすように、漆黒の瞳を僅かに細めた。深層を進むごとに増していく密度固定の負荷は、彼自身にとってさえ小さくない摩耗であったが、その表情に苦悶の色を浮かべることはなかった。ただ淡々と、目の前の空間を「征服すべき事象」として処理していくだけだった。
「……歩みが遅いな。このペースでは四十階層まで数日かかる」
アレンは不意に足を止め、暗い通路の先を見据えた。通路は幾重にも湾曲し、曲がり角の先からは数多の魔力の拍動――侵入者を排除せんとする古代自動人形たちの、無機質な殺気が伝わってくる。
「アレン様、索敵範囲内に数百の反応がありますわ。一体ずつ相手をしていては、公女王陛下への報告が遅れてしまいますわね」
セリス・ヴァレンティアがレイピア《煌光穿》の柄を指先で叩き、周囲の熱源へと警戒を向ける。彼女の脳裏には、これまでの階層で味わった苦戦の記憶が過ぎったが、それを口にすることはなかった。だが、アレンはその準備を事務的な一言で制した。
「いや、その必要はない。……一気に抜けるぞ」
アレンがドームの端まで無造作に歩み寄り、右手を前方へと突き出した。
パチン、と。乾いた指の音が響く。
次の瞬間、アレンの掌から一条の蒼白い光が奔った。それは瞬く間に巨大な「刃」へと膨張し、数百メートル先の通路の奥まで一気に届く。
《光刃魔術》。
本来、光は直進を定義する。だが、アレンの《魔力直接操作》の前に、光学理論の限界など何の意味も持たなかった。
「……曲がれ」
アレンの意思に従い、光の巨大刃は迷宮の湾曲に合わせてぐにゃりと折れ曲がった。通路の形状を完全にトレースし、視界外の角の先に潜む魔獣ごと、階層のすべてを「凪ぎ払う」。
シュゥゥゥゥゥゥウウン!!
水中とは思えぬ、高密度の魔力が水分子と摩擦を起こす咆哮が響き渡った。壁に張り付いていた魚型の古代兵器も、天井から奇襲を狙っていた暗殺人形も。アレンが腕を横に一閃させただけで、そのすべてが事象として「消去」され、光の塵へと還っていく。
「……なによ、これ。わたくしの出番、本当にありませんわね」
セリスは構えていたレイピアを虚しく下ろした。かつて軍や学院で学んだ戦術、属性相性、あるいは間合いの概念。それらすべてが、アレンという「天災」の前ではあまりにも無力な児戯に感じられた。誇り高き魔術師としての矜持が、僅かに軋むような音を立てるのを、彼女は静かに飲み込んだ。それでも、この理不尽な力の傍らに立つことこそが自分の誓約だと、心の奥で改めて確かめる。
「アレン様の光刃は、もはや一つの現象そのものです」
リィナ・フェルウェンが《三重魔導護膜》を維持しながら、畏敬の念を込めて呟く。通路には、アレンの光刃が通過した跡に、熱で蒸発した無数の細かい気泡が星のように漂い、蒼い闇の中で幻想的な燐光を放っていた。その光景は、まるで深海に瞬く偽りの星座のようで、リィナはしばし言葉を失ったまま見入っていた。
「索敵反応、全消滅。……安全です。行きましょう」
サツキ・ハートフィールドが《星凪》を背負い直し、最短距離で開かれた道を迷いなく進み始める。彼女の瞳には、もはや驚愕はない。ただ、主が切り拓いた道を汚さぬよう、その背後を守る武人としての静かな覚悟だけが宿っていた。彼女の足音は、水圧の唸りに紛れることなく、確かな信念を持って石床を踏み締めていた。
「……少し、振りすぎたか。腕が熱いな」
アレンは熱を帯びた右手を軽く振り、何もなかったかのように再び歩き出した。その素振りには疲労を誇示する気配も、達成感を語る気配もない。ただ、次の階層へと向かうための、当然の一歩でしかなかった。
理外の男が刻む歩法は、深淵の静寂を切り裂き、さらなる底へと一行を導いていった。蒼い闇の奥には、まだ見ぬ試練が横たわっているだろうことを、誰もが予感していたが、その足取りに揺らぎは一切なかった。水の唸りだけが、四人の背後で静かに、そして絶え間なく響き続けていた。




