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深古水環宮、三十四階層。
階層を重ねるごとに外界の「水の壁」はその密度を増し、もはや液体というよりは、あらゆる存在を押し潰そうとする巨大な鉄塊のような圧力を孕んでいた。アレン・ヴァルグレイが維持する魔力ドームの外側では、鋼鉄をも容易く拉げさせる水圧が「キィィィィィン」と鼓膜を焼くような高周波の摩擦音を立て続けている。ドームの内側に流れる凪いだ静寂は、アレンの理外の《魔力直接操作》によって強引に定義された、世界の理の「空白」であった。
通路の先、暗い底から巨大な影が音もなく浮上してきた。
全長五メートルを超える、蟹型の重装自動人形──『シェル・ギガント』。その漆黒の甲殻は、深海のわずかな魔光を吸い込むように鈍く沈み、中央に配された紅い監視孔が、侵入者を排除すべき「異物」として冷酷に捉えていた。
「目障りですわ! 《爆炎砲》!」
セリス・ヴァレンティアがレイピア《煌光穿》を鋭く突き出した。水中という環境下で減衰しにくいよう、アレンの魔力循環を借りて極限まで圧縮された紅蓮の火砲が、蒼い闇を焼き切りながら直進する。
だが、着弾の刹那、凄まじい衝撃も爆音も響かなかった。
紅蓮の光は、蟹の漆黒の甲殻に触れた瞬間、パチンと虚しく弾けて霧散したのである。爆発のエネルギーは物理的な力へ変換されることなく、ただ情報の塵となって甲殻の奥へと吸い込まれて消えた。
「魔術吸収装甲……!? わたくしの術式を、文字通り『喰い』ましたわ!」
セリスが青色の瞳を驚愕に染め、僅かに眉をひそめる。現代魔術の到達点とも言える彼女の火力が、構造的に、そして概念的に無効化されていた。術式という設計図を介する攻撃である限り、あの甲殻を突破することは叶わない。彼女の脳裏には、これまで積み上げてきた戦術理論のすべてが、この一体の敵によって根底から否定されていく感覚があった。
「……下がっていろ、セリス。ここは魔術の出る幕じゃない」
アレンが感情の起伏を削ぎ落とした声で制した。彼は一歩も動かず、漆黒の瞳を隣に立つ茶系のポニーテールの武人へと向けた。
「サツキ。……試してみろ」
「……御意」
サツキ・ハートフィールドが、重厚な石床を静かに蹴って前へ出た。その背から引き抜かれたのは、新調されたアダマンタイト製の薙刀──《星凪》。
サツキが柄を握りしめると、アレンを中心とした「三拍子の鼓動」を介して、理外の魔力が彼女の深層回路へと穏やかに流れ込んだ。アダマンタイトの刀身が主の循環に呼応し、深海のような底知れぬ蒼い燐光を放ち始める。それは魔術を構成するためのエネルギーではなく、物理的な「鋭利さ」を極限まで研ぎ澄ませるための、武の熱量であった。
サツキは深く、長く、肺の奥の空気を吐き出した。ドームの境界線を見据える彼女の瞳には、かつて三十階層で獲物を鉄の棒に変えられた際の焦燥も、屈辱も、もはや微塵も存在しなかった。指先に伝わる刀身の重みが、確かな自信となって全身へと巡っていく。
「はぁぁぁッ!!」
サツキの身体が弾丸と化した。ドームの境界を越え、水中の圧倒的な重圧の中へと飛び込んだ瞬間、彼女は水の粘性を逆手に取った超高速の回旋を繰り出した。
ドォン!!
水中とは思えぬほどの激しい衝撃音が響き渡る。《星凪》の刀身がアレンの魔力循環を受けて絶対的な真空を形成し、水の抵抗を力任せに切り裂く。それは魔術理論では説明不能の、長年の鍛錬と理外の魔力が融合した、純粋なる「戦技」の極致であった。
ギィィィイイイイイン!!
魔術を無に帰すはずの漆黒の甲殻が、紙細工のように無残に両断された。断面は鏡のように滑らかで、水の侵入さえ許さぬほどに鮮やか。蟹型の自動人形は、自慢の装甲を誇示する暇もなく、縦一文字に割れて巨大な魔石へと還っていった。
サツキは静かに《星凪》を振り、付着した魔力の残滓を払った。水中の重圧を受けながらも、その指先は驚くほど軽く、確かな充足感とともに武器を握りしめている。切り裂いた感触が、まだ掌の奥に鮮明に残っていた。かつて武器が「鉄の棒」と化した屈辱の記憶は、この蒼い刃の重みによって完全に上書きされていくのを、彼女は静かに実感していた。
「……見事ですわね。魔術が効かないなら、物理的に叩き切る。あまりに単純で、あまりに困難な解答ですわ」
セリスが感嘆の溜息を吐き、レイピアを収めた。武を極めた者だけが到達できるその解答に、騎士としての敬意を隠そうとはしなかった。彼女の胸の内には、自らの魔術理論の限界を突きつけられた悔しさと、それを補って余りある同志への信頼が、ないまぜになって渦巻いていた。
「……アレン様。この武器、私の魂に馴染みます」
サツキが振り返り、僅かに頬を緩めた。アレンの傍らに立つための、三つ目の楔としての自覚。かつての疎外感は、この蒼い刃の重みとともに霧散していた。
「そうか。なら、どんどん行こう。……四十階層は、まだ先だ」
アレンの温度を欠いた、だが確かな信頼を含む言葉に応じるように、サツキの纏う“武の気配”がさらに鋭さを増していく。蒼き深淵を切り裂く「牙」は、今、完成を見たのである。
リィナは《三重魔導護膜》を維持しながら、その一部始終を静かに見守っていた。彼女の視界に映るサツキの背中には、もはや迷いも焦りもない。ただ、主の隣に立つ武人としての、揺るぎない確信だけがあった。その光景に、リィナは自身の胸の奥が僅かに温かくなるのを感じた。三人の楔が、それぞれの役割を確かに果たしながら深化していく様は、彼女にとっても静かな喜びであった。
一行は水の唸りを背に、さらなる深層へと足を踏み入れていった。蒼い闇の奥には、まだ見ぬ試練が待ち受けているだろうことを、誰もが予感していたが、その足取りに躊躇いは一切なかった。




