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深古水環宮、三十一階層。転移の残光が消え、視界が開けた先にあったのは、肺の奥まで湿らせるような重く冷たい静寂だった。ここまでは、アレンが以前に剣技の修練を兼ねて到達し、座標を記憶していた場所だ。無機質な石壁に囲まれた広間は、辛うじて「陸」の領域を保っているが、その先にある安全地帯の出口には、物理法則を無視して垂直に切り立つ「水の壁」が、通路を完全に封鎖していた。
アレン・ヴァルグレイは感情の起伏を欠いた瞳で、その巨大な水の質量を見上げた。石壁を伝う水滴が、静寂の中でぽつりぽつりと不規則な音を立てて落ちている。その一つ一つが、これから足を踏み入れる領域の異質さを告げる警鐘のように、アレンの耳に響いていた。
「……ここから先ですわね。迷宮の性質が劇的に変わるのは」
セリスがレイピア《煌光穿》の柄に指をかけ、前方を見据える。三十階層までは湿地帯に過ぎなかった迷宮は、ここから先、完全なる「水中の回廊」へと姿を変える。
アレンは掌を広げ、目の前の重厚な水壁に無造作に触れた。掌に伝わるのは、想像を絶する圧力の予兆。だが、その表情には一切の動揺もなかった。
「全員、俺の半径三メートル以内から離れるな。……行くぞ」
アレンが境界線を越え、水の壁の中へと足を踏み入れた。途端に、数千トンの水圧が容赦なく一行を圧し潰そうと襲いかかる。だが、その暴力的な水流がアレンの肌に触れる刹那、パチンと乾いた指の音が響いた。
《魔力直接操作》。アレンが放ったのは魔術式を介した防御陣ではない。彼は自身の周囲にある「水の密度」そのものを魔力によって物理的に固定し、強引に空間を定義し直したのだ。押し寄せる蒼い質量はアレンの見えない意思に阻まれ、ドーム状の「空気層」が維持される。外部からは鋼鉄をも拉げさせる水圧が「キィィィィィン」と高周波の摩擦音を立てて鳴り響いているが、ドームの内側には、穏やかな凪のような静寂が保たれていた。
「外は凄まじい水圧ですね。アレン様、この密度固定を維持しながら進むのは、かなりの負荷なのでは?」
リィナが《三重魔導護膜》の調子を整えながら、ドームの外で渦巻く蒼い闇を不安げに見つめる。彼女の脳裏には、この見えない「空白」を支え続けるアレンの負担が、いかほどのものかという懸念が絶えず巡っていた。
「いや。……一度定義すれば、あとは魔力を流し続けるだけだ。問題ない」
アレンは淡々と答え、深海のような通路を悠然と進み始めた。その足取りには、深淵の圧力に対する恐れなど微塵も見受けられない。
蒼い闇の奥から、無数の紅い眼光が一行を射抜いた。魚型の古代自動人形──『アクア・ギア』。水圧を推進力に変える銀色の機体が、ドームに向けて弾丸のような速度で殺到する。
「目障りですわ! 《雷槍》!」
セリスが鋭い刺突と共に術式を放つ。だが、ドームの境界を越えて水中に触れた電撃は、水の屈折と密度の変化によって激しく乱反射し、敵の手前で虚しく霧散した。水中という環境下では、現代魔術の精密な座標固定は著しく減衰する。
「……チッ。計算通りに飛びませんわ! 水の屈折率が、術式の直進性を狂わせていますわ!」
セリスは自らの術式が乱れる様に、一瞬だけ苛立ちを露わにした。長年培ってきた精密な魔術制御が、水という単純な物理現象によって根本から狂わされるという事実は、彼女の誇りを僅かに刺激するものだった。
「……避けなくていい。俺がやる」
アレンが指先を向けた。放たれるのは、術式を持たない純粋な光の筋──《光束魔術》。
シュン!!
放たれた一条の光は、ドームの境界を越えて水中に突入した瞬間も、一切の屈折を見せなかった。アレンが魔力の指向性を直接固定し、水分子の干渉を力任せにねじ伏せて「直進」を定義し続けているからだ。物理法則をあざ笑う絶対的な直進光が、機械魚の眉間を次々と正確に貫いていく。水の抵抗を受けて火花を散らすこともなく、ただ事象として「貫通」という結果だけが刻まれていく。
「……相変わらず、理屈が通用しませんわね。光学理論まで書き換えてしまうなんて」
セリスが呆れたように溜息を吐き、レイピアを収める。その表情には、呆れと同時に、抗いようのない敬意が微かに滲んでいた。
「行きましょう。四十階層までは、まだ距離があります」
サツキが薙刀《星凪》を手に、アレンの背後を静かに守る。彼女の足取りは、水中の重圧を感じさせないほどに軽い。あの不快なノイズは、アレンを中心とした「三拍子の鼓動」に組み込まれた今の彼女には、もはや遠い記憶の残響に過ぎなかった。ドームの端から漏れ聞こえる水圧の唸りに、彼女は僅かに耳を澄ませたが、その眼差しには恐れではなく、これから訪れるであろう試練への静かな期待だけが宿っていた。
三十一階層。蒼き水の監獄は、理外の男の歩みを止めるにはあまりに脆すぎた。一行は水の唸りを背に、さらなる深淵へと足を踏み入れていった。ドームの薄い境界の向こうでは、無数の魔力の残滓が燐光となって漂い、まるで深海に散らばる星屑のように、一行の行く手を静かに照らし出していた。




