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西大陸南西、バルムート王国の交易都市アルカ・マリティマ。その中心にそびえ立つ魔軌士局本局の最上階では、数多の魔導端末が悲鳴のような警告音を上げ続けていた。無機質な電子音が重なり合い、不協和音となって厚い防魔壁に反響している。
「各国の外務局、および国際同盟事務局からの問い合わせログ、依然として秒単位で更新されています! 処理が追いつきません!」
通信士の悲痛な叫びを背に、本局局長オルディス・マリクレインは窓外に広がる交易都市の夜景を見つめていた。数百万の灯火が宝石を散りばめたように輝いているが、国際中立の象徴たる彼の瞳には、それらがいつか一瞬の魔力暴発で消え去る砂上の楼閣のように映っていた。
「……完全に私の判断ミスだ」
オルディスが絞り出した声は、長年積み上げてきた理知的な響きを失い、苦渋に満ちていた。彼は手元のアーク・リンクに映し出された、カザリアでの「事象報告」を忌々しげに一瞥した。
「カザリアへアレン殿を派遣した際、私はただ戦火を止めさせれば良いと考えていた。……特級No.5の身柄を確保し、契約違反を事務的に処理する。それだけであれば、国際同盟までがこれほど過剰に反応することはなかったのだ」
「……しかし局長、アレン殿はただ平和協定を仲介したに過ぎません。一滴の血も流さず、最悪の悲劇を回避した。その責任はアレン殿にあるのではなく……」
補佐官の震えるような弁護を、オルディスは鋭い眼光で遮った。
「アレン殿を責めているのではない。“政治の結果が出る任務”を彼に与えた、私自身の不徳を問うているのだ。魔軌士局は、本来『政治的中立』を旨とする行政機関……迷宮の探索を管理し、魔石の交換を事務的に処理するだけの、いわば『軽量の歯車』でなければならなかった」
だが、今回アレンが示した結果は、その一線を無残に踏み越えていた。一国の自治権を個人の判断で書き換え、新法を制定させるという「神のごとき介入」。周囲の目には、アレン・ヴァルグレイという一人の特務官が、魔軌士局という組織の制御を超え、既存の国家主権さえもあざ笑う「世界の王」のように振る舞い始めたと映っているのである。
「このままでは、局そのものが各国の主権侵害を理由に、解体対象になりかねん……」
オルディスは深すぎる溜息とともに、暗い天井を仰いだ。国際中立という名の薄氷が、一人の「零番」が放った重すぎる慈悲によって、今にも砕け散ろうとしていた。窓の外、無数の灯火の向こうには、彼が長年守り抜いてきた「中立という秩序」の輪郭が、夜霧の中に溶けていくように見えた。彼は白髪混じりの髪を右手でゆっくりと撫でつけ、老いた身体の芯からせり上がる焦燥を、静かな呼吸で無理やり押し留めていた。
同じ頃、ガルディア公国宮殿の別邸。
外界の政治的な喧騒を完全に遮断した静かな待機室では、二人の誓導者が、アーク・リンクに流れ込む情報の濁流と対峙していた。室内の魔導照明は落とされ、浮かび上がる無数のホログラムウィンドウが、リィナとセリスの顔を青白く照らし出している。
リィナは痛ましげな表情で、主のアーク・リンクへと届く膨大なメッセージを一つ一つ選別していた。彼女の指先が空中を滑るたびに、画面上の文字列が「不可視」へと処理されていく。
(……アレン様には、これ以上見せられません。こんな、醜い言葉の数々は……)
賞賛を装った卑劣な懐柔、理外の力への呪詛、そして特定の国家に与することを強要する政治的な取引の打診。リィナはアレンの精神を蝕もうとするそれらの「悪意の質感」を思考読解の端々で感じ取り、自身の胸元を、痛みを分かち合うように強く握りしめた。彼女にできるのは、この情報の毒液からアレンを守る防波堤になることだけだった。
「……セリス、アレン様には何も伝えない方が良いと思います」
リィナの穏やかだが芯のある提案に、セリスはレイピアのメンテナンスをしていた手を止め、静かに頷いた。彼女の青色の瞳にも、アレンを巡る世界の波紋がどれほど危うい均衡の上にあるかという、冷徹な理解が宿っていた。
「ええ。異論はありませんわ、リィナ。アレン様は、ただ『誰かが泣かないために』その力を振るわれただけ。……世界の秩序がどう揺らごうと、あの方は知らない方がいいこともありますわ」
二人は静かに視線を交わし、最後の一通を削除すると、端末の青白い光を完全に消去した。室内に戻ってきたのは、穏やかな夜の静寂と、微かなアロマの香りだった。リィナは削除の操作を終えたあとも、しばらく暗くなった画面をじっと見つめていた。指先にはまだ、あの悪意の残滓が張り付いているような、拭いきれない重さが残っていた。セリスはそんなリィナの横顔にそっと視線をやり、何も言わずにレイピアを鞘に収めた。二人の間には、言葉にせずとも通じ合う、姉妹のような静かな連帯があった。
「アレン様、お茶が入りました」
リィナがいつもの柔らかな笑みを湛えて奥の部屋へ戻ると、アレンは窓際で静かに本を読んでいた。月の光が彼の一九二センチの長身を淡く照らし、その漆黒の瞳には、大陸を揺らしている政治的な狂騒の影など、微塵も存在しなかった。
「ああ。ありがとう、リィナ」
アレンはリィナからカップを受け取り、一口喉を潤した。彼が草原で止めた戦火が、どれほどの火種を世界中に撒き散らしたのか。それによって自分自身が「世界の支配者」として各国の恐怖の対象になっていることさえも。それらを知る由もないまま、アレン・ヴァルグレイはただ、自身の楔たちが用意した穏やかな休息の中に身を置いていた。
理外の男がもたらした「平和」という名の嵐は、主役を不在にしたまま、世界の形を激しく、そして冷酷に変えようとしていた。窓の外では冬の星座が冷たく輝き、新たな深淵への遠征を待つ静寂が、深く、重く降り積もっていた。リィナはカップを置くアレンの横顔を見つめながら、この穏やかな時間がいつまで続くのか、誰にも分からないことをただ静かに噛み締めていた。彼女の胸の奥には、まだ誰にも打ち明けられない、あの終焉の景色の残響が、消えることなく漂い続けていた。




