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四大迷宮『蒼風峡谷』二七階層、安全地帯。
岩壁に張り付いた苔が放つ淡い燐光が、静寂に包まれたテントを青白く縁取っていた。
不意に、テントの前の空間がバターをナイフで切るように音もなく歪み、光を反射しない「無」の亀裂が走った。
「……ただいま、リィナ」
夜の闇に溶け込むようにアレンが現れた。
魔力循環誓約を通じてアレンの魔力波形を察知したリィナは、弾かれたようにテントから飛び出した。彼女は無事な彼の姿を確認すると、その胸に飛び込まんばかりの勢いで深い安堵の息を漏らした。
「実験は成功だ。《空間転移》が、完全に安定した」
「……本当ですか!? すごいです、アレン様……!」
リィナは自分のことのように淡い青色の瞳を輝かせた。
現代魔術の理論では不可能と断じられた「空間の跳躍」。アレンはその手中に、数千年にわたる迷宮攻略の歴史を根底から塗り替える「鍵」を、あまりにも容易く握っていた。
翌朝。深層特有の湿り気を帯びた空気が漂う中、二人は朝食の干し肉を齧りながら、次の方針について言葉を交わした。
「今日からは、一度二一階層まで戻って、ボスを倒し直すことにする」
アレンが淡々と告げると、リィナはアーク・リンクの時計を素早く確認し、納得したように頷いた。
「そうですね。前回の討伐から一〇日ほど経っていますから、二一階層から順に再生が始まっているはずです」
「二六階層のボスはまだ先だろう。だから、まずは二五から二一階層のボスを狩る」
アレンは指を一本立て、今回の戦略の核心を口にした。
「その道中で、二二階層の安全地帯を『転移ポイント』として記憶する。……これが重要だ」
リィナは一瞬考え込んだ後、ポンと手を打った。
アレンの狙いは極めて合理的だった。一度座標を記憶してしまえば、今後どれほど深層へ進もうとも、帰還時は一瞬で二二階層まで「跳ぶ」ことができる。
通常、迷宮の最深部からの帰還には、精神を削り体力を使い果たす一〇日から一四日の地獄のような行軍が必要になる。それを「一瞬」で踏み倒そうという、既存の探索理論に対する挑戦的な裏技だった。
「これなら、帰りの体力を気にせずに潜り続けられますね。……準備を整えましょう」
リィナは手際よく荷物を整理しながら、ふと気になっていた、けれど聞くのが怖かった質問を投げかけた。
「アレン様。……一つ伺ってもいいですか?」
「何だ?」
「アレン様は、この迷宮を……どこまで潜るおつもりですか?」
人類の限界点である二五階層を「散歩」で通り抜けた男。深淵が待つこの迷宮の、どこに彼は終着点を見出しているのか。
アレンは少しだけ視線を天井へ向け、あっさりと答えた。
「とりあえず……《空間収納》の食料がなくなるまで、かな」
リィナの手が、ピタリと止まった。
普通の探索者にとって、深層探索の限界とは「精神の摩耗」や「魔力切れ」、あるいは「装備の破損」を意味する。
だが、この男にとっての限界は、極めて現実的で生活感の溢れる「備蓄食料の在庫」であった。
(……そんな理由で深層探索の限界が決まるなんて、絶対にあり得ません……)
リィナは数秒の硬直の後、ふっと柔らかく微笑んだ。
理外の男が隣にいる。ならば、常識を基準に測ること自体が、すでに間違いなのだ。
「……わかりました。気をつけていきましょう、アレン様!」
リィナは表情を引き締め、一人の誓導者としての覚悟を込めて応じた。
この男がどこまで行くのか。世界の果てまで歩むその隣で、最後まで彼を見守り抜くことを、彼女は改めて魂に誓った。
二人は二七階層の安全地帯を後にし、再び逆走するように迷宮の深淵へと舞い戻った。
迷宮の理を穿つ、二人だけの本当の「遠征」が、今ここから始まった。




