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四大迷宮『蒼風峡谷』二七階層、安全地帯。
岩壁に設置された魔導ランタンが、深層の濃密な闇を淡い青白色に切り取っている。リィナは、アレンが《空間収納》から取り出したテントの中で、深い眠りに落ちていた。連日の強行軍と、アレンの規格外な行動に神経を削り続けた疲労が、彼女の意識を心地よい重みで沈めている。
その静寂の中、アレンは一人、二六階層へと続く階段の前に立っていた。
魔導ランタンの光が、彼の引き締まった長躯を壁面に長く、鋭い影となって投影している。彼は昨日と同じように、階段の数段を降りては戻るという、傍目には奇妙で単調な往復運動を繰り返していた。
(……やはり、ここだ。この一段を跨ぐ瞬間、世界の『音』が変わる)
アレンの《魔力直接操作》は、大気中の魔力流が断絶し、別の空間の位相へと無理やり縫い合わされている「継ぎ目」を、皮膚を刺すような微細な震えとして感知していた。
エルディアの魔術理論において「移動」とは常に物理的な座標の連続性に基づいている。だが、この迷宮を構築した未知の理は、空間そのものを切り離し、固定転移装置である「階段」によって強引に接続しているのだ。
アレンは階段の淵に腰を下ろし、目を閉じた。
自身の内側に宿る、底知れぬ魔力の核を研ぎ澄ませる。現代魔術のような幾何学的な魔法陣を構築する必要はない。ただ、自らの感覚を世界の理そのものへと直接繋ぎ合わせ、現象を「上書き」していく。
(再現すべきは、あの階段の魔力揺らぎ。そして、目的地は──)
脳裏に描くのは、昼間に長時間観察し、その微細な魔力構造まで魂に刻み込んだ、転移トラップの傍らにある「大岩」。あの場所の三次元座標、周囲の魔力圧、そして空間に穿たれた楔の波形を、一つの「点」として固定する。
「……空間を歩いて進むんじゃない。空間そのものを……『折る』」
アレンが呟いた瞬間、周囲の大気が悲鳴を上げるように軋んだ。
無色透明な魔力の奔流が、彼の意志に従って重力を無視し、現実の壁をバターのように容易く歪めていく。
刹那、視界の色彩が反転した。
上下左右の概念が消失し、自身の存在が薄い膜のように引き延ばされ、虚空へと投げ出される不快な浮遊感。だが、アレンはその強烈な「揺らぎ」を強靭な精神で捩じ伏せ、自身の存在を目的の座標へと強引に固定した。
──フッ、と唐突に重力が戻った。
アレンが目を開けると、そこには安全地帯の無機質な石壁はなかった。
目の前に鎮座しているのは、昼間にその表面を撫でて観察した、あの巨大な黒岩だ。
周囲には、二七階層特有の湿り気を帯びた冷たい風が吹き抜け、岩肌にへばりついた苔がぼんやりとした燐光を放っている。安全地帯から数百メートルは離れた、あの転移トラップの発生地点。
「……成功、だな」
アレンは自身の、節くれだった大きな掌をじっと見つめ、静かに息を吐いた。
一千七百年以上にわたる現代魔術の歴史において、誰一人として到達し得なかった空間の跳躍。術式というフィルターを介さず、世界の理を力ずくで書き換えた理外の現象。
「《空間転移》……完成だ」
冷徹な闇に包まれた深層の底で、男が放ったその一言。
それは、迷宮という名の絶対的な牢獄における「距離」と「時間」の支配を打ち破り、新たな理を世界に刻み込んだ瞬間だった。




