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カザリア王国の北部街道に、表面上の静寂が訪れていた。地平線の端から差し込み始めた朝日の黄金色が、霜の降りた草原を白銀に輝かせ、移動都市の巨大な影を大地に長く引き摺っている。だが、その神々しいまでの光は、広場に漂う重苦しい「拒絶」の空気までは照らし出すことができなかった。
広場の中央には、即設された調印の円卓が置かれていた。そこを囲むのは、かつて牙を剥き合った国王ザイロス・カザリアと、各部族の長老たちである。卓上には、カザリア独自の魔術回路が埋め込まれた一通の魔導文書――「カザリア草原協定」が、朝の冷気を反射して青白く発光していた。文書の表面を走る光の線は、まるで生きているかのように、緩やかに明滅を繰り返している。
ザイロス王は重厚な万年筆を手に取ったが、その指先は目に見えるほど強張っていた。彼が魔導文書に刻んだのは、王権の一部を部族へ切り出し、自国の『理』が敗北したことを認める屈辱の署名であった。カリカリという硬質な音が、張り詰めた静寂の中に不気味に響き渡る。王の額には、朝の冷たさとは無縁の脂汗がうっすらと滲んでいた。次いで長老たちが、部族の誇りを象徴する指輪で魔力の印を刻んだ。指輪から放たれた淡い光が文書の表面に吸い込まれ、静かに消えていく様を、周囲の戦士たちは息を詰めて見守っていた。
アレン・ヴァルグレイが提示した「五つの和平条項」――部族自治の強化、混血保護法の制定、そして王国軍と部族による「共同警備隊」。それは力による支配を捨て、対等な「隣人」としての誇りを認め合うという、この国にとって未知の共生への第一歩であった。だが、署名を終えた両者の間には、握手さえも交わされなかった。円卓を挟んで向き合う王と長老たちの視線は、互いに交わることなく、それぞれ別の方向を見つめていた。
「……感謝する、零番」
ザイロス王が立ち上がり、アレンへと右手を差し出した。王の琥珀色の瞳には、最悪の悲劇を回避できたことへの切実な安堵が滲んでいたが、その視線の端では、周囲を取り囲む王国軍の兵士たちが獣人戦士たちを、未だ不信と差別意識の剥き出しになった眼差しで射抜いていた。差し出された王の手は、まだ微かに震えていた。
アレンはその手を無造作に握り返したが、その掌から伝わる一国の主の重圧を、事務的な作業をこなすように受け流した。
「勘違いするな。俺が止めたのは戦火だけだ。……あんたたちの心にある憎しみまでは、俺の魔術では消せない」
アレンの温度を欠いた一言が、朝の冷気に溶けていく。それは救世主の言葉ではなく、この世界に厳然として存在する「不条理」をありのままに肯定する、理外の介入者としての突き放した誠実さであった。隣に立つリィナは、主から放たれる極低温の魔力圧を感じ取り、自身の胸元を、痛みを分かち合うように強く握りしめた。彼女の淡い青色の瞳には、この協定がまだ第一歩に過ぎないという確かな認識が滲んでいた。
移動都市の入り口。そこには、数多の戦士たちに囲まれたセルディオ・ラグランの姿があった。朝日を受けた彼の表情からは、かつての居場所を求めて彷徨っていた「混じりもの」の危うさは消え失せ、代わりに自らの足で大地を踏みしめる武人としての静かな威厳が宿っていた。彼の周囲を固める戦士たちの目には、もはや敵意ではなく、これから自分たちの新たな「守護者」となる男への、確かな信頼の色が浮かんでいた。
「……マスター・セルディオ。本当に行かれるのですね」
見送りに立ったカレンとリディアの問いに、セルディオは振り返ることなく、ただ短く頷いた。彼は王国最強の「盾」という地位も名誉も、そして守るべき法もすべて捨て去った。人間にも、そして完全には獣人にもなりきれない自分のような者たちが、いつか本当の居場所を見つけるその日まで、彼は独立派の「孤独な守護者」としてこの荒野に残る道を選んだのだ。
「ああ。俺はもう、王国の犬ではないからな。……俺はここに残り、この協定が守られるかを見届ける。……部族の『守護者』としてな」
セルディオは一度だけ、遠くに立つアレンへと視線を投げた。アレンもまた、それを受け止める。言葉はなくとも、二人の特級魔軌士の間には、戦場を支配した者同士にしか分からぬ「武の敬意」が静かに流れていた。セルディオの背中は、朝日に照らされながらも、どこか深く、修復不能な孤独を纏っていた。彼が捨てたものの重さと、これから背負おうとするものの重さが、その広い肩の輪郭に静かに滲んでいるように見えた。
アレンたちを乗せた電動車両が、乾いた大地を蹴って南へと滑り出す。車窓から見える草原の景色は穏やかだが、アレンはその大気中に、未だ燻り続ける憎悪の魔力残滓が、不気味なノイズとなって渦巻いているのを視覚的に捉えていた。淡く赤みを帯びたその残滓は、風に流されながらも、完全には消え去ることなく、草原の彼方まで薄く広がっているように見えた。
「……終わりましたわね、アレン様。一滴の血も流さずに、一国の内戦を止めてしまうなんて……。公女王様が驚かれるお顔が目に浮かびますわ」
セリスが抱えていたレイピア《煌光穿》を座席に預け、長く深い安堵の溜息を吐いた。彼女の青色の瞳は、車窓を流れていく穏やかな草波を、一国の騎士として慈しむように見つめている。
「刃を振るわずに済んで、本当に良かったです。サツキさんの薙刀も、血を吸わずに済みましたね」
リィナが隣のサツキに微笑みかけると、サツキは愛用の《朧月》を愛おしそうに撫で、深く頷いた。刃の腹を指先でなぞる仕草には、この一戦を通じて確かめた、自らの武技への静かな誇りが滲んでいた。
「アレン様の《衝撃制御》があったからです。……命を損なわずに対象を屈服させるあの絶技、私も同じ武人として、背筋が凍る思いでした」
サツキの深い茶色の瞳が、前を見据えるアレンの背中に向けられた。武人としての戦慄、そして一人の女性としての揺るぎない信頼。彼女はその感情を飲み込むように、短く息を吐いた。
リィナがアレンの隣に寄り添い、その端正な横顔を覗き込んで、花が開くように微笑む。
「アレン様。……戦わずに勝ちましたね」
アレンは流れていく草原の景色を眺めたまま、しばらく沈黙し、やがて静かに首を振った。
「……勝ってない。……止めただけだ」
その温度を欠いた一言。だがその奥底には、誰かを倒すためではなく、ただ誰かが泣かないために力を振るうという、不器用で誠実なアレンの本質が詰まっていた。守るべきものは守る。その単純で、それゆえに理外に困難な宿命を背負い続ける男の孤独が、冬の陽光の中でわずかに和らいだように見えた。車内に満ちる静けさの中で、四人はそれぞれの想いを胸に、しばらく無言のまま車窓の景色を眺め続けていた。
移動都市の喧騒から離れた、北の丘の影。一人の工作員が、周囲の魔力動態を警戒しながら、懐から無機質な黒鋼色の小型端末を取り出した。丘の斜面に身を潜めるようにしゃがみ込んだ彼の視線は、遠ざかっていく車両を、注意深く追い続けていた。
「こちら、観測班。……『理外の風』の介入により、カザリアの計画は一時頓挫。No.0の出力は、事前の予測値を三十パーセント以上上回るイレギュラーな異常値です」
工作員の声は、乾いた風に溶けるように淡々としていた。端末のディスプレイには、アレンが放った衝撃波のエネルギー分布図と、和解したはずの両者の間に残る「憎悪の波長グラフ」が、警告を示す深い赤色で表示されている。グラフの曲線は複雑に波打ち、和平協定という表面上の結果とは裏腹に、根深い感情の澱がまだ完全には拭い去られていないことを示していた。
「……了解した。自由の種は撒かれた。芽吹く場所は、ここである必要はない。……帰還せよ」
通信が途絶え、端末が冷たい鉄の塊に戻る。工作員の姿は、草原を渡る風と共に、音もなく虚空へと消えていった。彼が身を潜めていた丘の斜面には、踏み荒らされた枯草の跡だけが、しばらくの間、風に揺れながら残されていた。
同じ頃、中央大陸北西部――トラヴァン共和国・首都トラヴェリス。
国家統合庁長官室の広大な窓からは、手入れの行き届いた大森林の緑が、現代魔導文明の結晶である高層ビル群と見事な調和を見せていた。朝の光が窓ガラスを透過し、室内の床にいくつもの明るい光の帯を描き出している。
国家統合庁長官セイラン・ヴァル=トラヴァンは、デスクに投影された世界最先端の魔導モニター群を前に、カザリアでの「実験結果」を静かに総括していた。彼の指先が、ホログラムに表示された数値の列を、ゆっくりと撫でるように滑らせていく。
「理外の零番、アレン・ヴァルグレイ……。貴殿の不条理なまでの『慈悲』が、どこまでこの大陸の理を繋ぎ止められるか、楽しみにさせてもらうよ」
セイランの深緑の瞳には、計画が失敗した焦燥など微塵もなかった。むしろ、新たな「変数」を手に入れた子供のような、純粋で残酷な好奇心が宿っていた。窓から差し込む朝の光が、彼の灰銀色の髪を柔らかく照らし、その端正な横顔にどこか超然とした影を落としていた。
「差別と憎しみの連鎖は、数ページの条項で消えるほど安っぽいものではない。……自由を求める意志が、次なる嵐を呼ぶ。その時、貴殿は何を守るのかな」
セイランは静かにデスクのホログラムを消去すると、再び穏やかな「差別撤廃の旗手」としての顔に戻り、窓外の美しい森へと視線を投げた。彼の背後で、モニターの光がゆっくりと消えていき、室内には森を渡る風の音と、遠く高層ビル群を行き交う無人タクシーの微かな駆動音だけが残された。
二一九八年、冬。カザリアに吹き荒れた不穏な風は、理外の介入者によって一度は凪へと変えられた。しかし、その凪の底には、次なる激動の予感を孕んだ泥濘が、静かに、そして確実に広がり始めていた。
物語の舞台は、次なる波乱の地へと動き出す。アレン・ヴァルグレイの歩みは、まだ始まったばかりであった。窓の外に広がる大森林の緑は、朝の光を浴びて穏やかに輝いていたが、その静けさの奥深くで、新たな時代の歯車が、確かに、そして誰にも気づかれぬまま、静かに回り始めていた。




