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冬の峻烈な冷気が、ガルディア公国の首都ガルディアスを白く塗り込めていた。宮殿を取り囲む庭園の梢は霜を纏い、朝日を受けて硝子細工のように輝いている。吹き抜ける風は肺の奥まで凍てつかせる鋭さを持っていたが、公女王執務室の内部だけは、最新の魔導空調によって春のような穏やかさが保たれ、ほのかなアロマの香りが漂っていた。
カザリア王国での任務を終えて帰還したアレン・ヴァルグレイは、公女王エリシア・ヴァルステイン・ガルディアの前に立ち、漆黒のセミロングコートの襟を正していた。黄金の草原で結ばれた「カザリア草原協定」の概要を、彼は感情を削ぎ落とした声で淡々と読み上げていく。
「アレン殿、おかえりなさい。……一滴の血も流さずに、一国の内戦を止めてしまうなんて。やはり、あなたにお願いして正解でしたわね。心から感謝しますわ」
執務机から立ち上がったエリシアが、花が開くような柔らかな微笑みを浮かべた。その青い瞳には、最悪の戦火を回避できたことへの、一国の元首としての切実な安堵と称賛が滲んでいる。だが、アレンはその称賛を、極低温の独白でそっと撥ね退けた。
「……奢るべきではない。俺が止めたのは戦火という現象だけで、彼らの心に根を張った憎しみまでは、俺の魔術では消せなかった。あれは救済などではない。ただの強制的な一時停止だ」
アレンの漆黒の瞳は、エリシアの背後の窓から見える冬の空を、どこか遠い場所を見つめるように射抜いていた。その突き放した誠実さに、エリシアは一瞬だけ息を呑み、次いで慈しむような眼差しを向けた。アレンが「天災」としての力を振るいながらも、常にその結果に対して誰よりも厳しい「責任」を感じていることを、彼女は知っていたからだ。
報告が終わると、エリシアは端末から一通のデジタル魔導文書を空間に投影した。
「これは……次年度の雇用契約更新の依頼書ですわ。期間は女神歴二一九八年九月から、二一九九年八月まで。アレン殿、改めて、この国を支えてはいただけないかしら」
アレンは浮遊するホログラムに記された日付を、無機質にじっと見つめた。数秒の沈黙の後、彼はアーク・リンクを操作し、自身の魔力署名を文書に刻み込んだ。
「更新、承諾した」
「ありがとうございます。……けれど、アレン殿。何か、気になることでも?」
エリシアが、アレンの僅かな眉の動きを察して問いかけた。アレンは署名を消去すると、視線を再び冬の空へと戻し、独り言のように静かに口を開いた。
「いや。……ただ、その次の更新は、できないかもしれない」
エリシアの心臓が、物理的な衝撃を受けたかのように大きく跳ねた。アレンという「世界の理」そのものがいなくなるという予感は、彼女にとって、この公国の終わりを告げる弔鐘のように響いたからだ。彼女は続きを問い質そうと唇を震わせたが、アレンの漆黒の深淵に宿る、誰の介入も許さない孤独な決意を見て、言葉を飲み込んだ。
アレンの数歩後ろで控えていた第一誓導者、リィナ・フェルウェンは、そのやり取りを見守りながら、無意識のうちに自身の固有能力である《思考読解》を深層まで走らせていた。
(アレン様……?)
リィナの脳裏に、アレンの思考の断片が、汚れなき雪を侵食する泥のように流れ込んできた。これまでの精密な魔術演算とは異なる、悍ましいまでの「滅びのビジョン」。
『……二一九九年九月……契約満了……』
『……二二〇〇年一月……黒き災厄……封印解除……』
リィナが見たのは、単なる日付ではなかった。世界を支える世界樹が内側から黒く腐り果て、濁った魔力が泥となって大陸を飲み込み、人々が悲鳴を上げる間もなく光の中に溶けて消えていく、凄絶な終焉の景色だった。
「……っ!」
リィナは目を見開き、自身の肩を抱くようにして激しく震えた。背筋を駆け抜ける物理的な寒気。今、触れてしまったのは、救世主としての希望などではない。アレンが「二二〇〇年一月」という決定的な終止符に、自らの命を、そして魂の全てを置いて戦おうとしている、あまりにも淡々とした「死の予感」だった。
エリシアには聞こえない魂の慟哭を前に、リィナはただ、隣に立つセリスの手を無意識に握りしめ、必死に呼吸を整えることしかできなかった。セリスは何も言わず、ただリィナの指先の震えを確かめるように、握り返すだけだった。窓の外を過ぎる雲の影が、執務室の床にゆっくりと動いていく。誰にも気づかれぬまま、リィナの胸の内側だけが、凍りついた湖のように静まり返っていた。
二月二日。ガルディア公国宮殿の別邸。外界の政治的な喧騒を完全に遮断した静かな広間で、サツキ・ハートフィールドは磨き抜かれた石床に片膝を突いていた。その眼前のテーブルには、重厚な木箱に収められた一振りの薙刀が置かれている。
「……これが、私の新しい槍ですか」
サツキが静かに顔を上げ、その武装を視界に収めた。銘は《星凪》。刀身には、深海のような底知れぬ蒼みを湛えた伝説の金属、アダマンタイトが贅沢に使われている。窓から差し込む冬の陽光を受け、その刃は冷たい蒼光を放っていた。
アレン・ヴァルグレイは壁に背を預け、漆黒の瞳でその光景を冷徹に眺めていた。
「三十階層までの練習でお前の動きは見た。……家伝の《朧月》は名品だが、あれはあくまで対人、あるいは中層までの魔獣を想定した造りだ。これからの深層……より強固な装甲を持つ古代機構や高密度魔力体に挑むには、単純に物理的な武器強度が足りない」
アレンの言葉は、武人としてのサツキの現状を正確に射抜いていた。先日の迷宮マラソンではアレンの鼓動と同調することで不協和音こそ克服したが、深層の主が放つ圧倒的な魔力密度の前で、既存の魔導回路を持つ武器が「鉄の棒」と化すリスクは依然として残っている。今後の攻略を確実なものにするため、アレンは「何があっても折れない刃」が必要だと判断したのである。
サツキは《星凪》の柄に手を伸ばし、その感触を確かめた。掌に伝わるのは、手に馴染む確かな重みと、芯の通った強靭な手応えだった。
「……一〇七億エル。素材だけで、それだけの価値がある一振りですわ」
傍らで見守っていたセリス・ヴァレンティアが、気品ある仕草で補足した。戦闘衣装が一億エルという高額であることを考えれば、その百倍を超える価格は異常に聞こえる。だが、それはアダマンタイトという希少材料の基礎価格と、薙刀という大きな獲物を構成するために必要な「素材量」に起因する正当な対価であった。
この《星凪》は、機動性を損なわず、かつアレンの理外の魔力循環を受け止め、敵の硬度を物理的に粉砕するためだけに特化した、究極の「攻撃の器」なのだ。
「鍛冶師ブロムが、サツキさんのために最高の部材を選んでくれました。内部にはトラヴァン共和国製の最新魔導回路が組み込まれています。アレン様の魔力圧にも耐えうる、現時点で最高峰の安定性を持つパーツだそうです」
リィナが穏やかな声で、ドワーフの職人が込めたこだわりを説明する。それは特定の国家の意図を汲んだものではなく、ただ「サツキという武人がアレンの傍らで全力で刃を振るうため」に、職人がその知見のすべてを注ぎ込んで選び抜いた結晶であった。
「……アレン様。この重み、この輝き。……私の魂が、震えるようです」
サツキは《星凪》を力強く握り締め、深く、深く頭を下げた。自身の武を信じ、その背後を任せるための「楔」を用意してくれた主への、言葉にできないほどの感謝が込められていた。彼女は、もはや自分が「待つ側」でも「練習の同行者」でもないことを、この蒼い刃と共に確信していた。
最強の魔術師を繋ぎ止める三つの楔。その最後の一つが、一〇七億エルの物理的な重みとともに、ついに真の覚醒を迎えようとしていた。窓の外では雪が静かに舞い落ち、新たな深淵への遠征を祝福するかのような静寂が、別邸を満たしていた。
石床に片膝をついたまま、サツキはしばらく《星凪》の刀身に映る自分の顔を見つめていた。かつて三十階層で味わった、獲物を「鉄の棒」に変えられた屈辱。あの日の焦燥が、この蒼い金属の重みによって静かに塗り替えられていくのを、彼女は確かに感じていた。武技だけを頼りに生きてきた彼女にとって、それは単なる武器の更新ではない。自分という存在そのものが、この一振りによって次の段階へ引き上げられたのだという、静かな確信だった。
リィナはそんなサツキの横顔を見つめながら、先刻執務室で触れてしまった「終焉の景色」を胸の奥に押し込めた。誰にも言えない。言えば、この穏やかな時間そのものが崩れてしまう気がした。窓の外の雪はやむことなく降り続け、宮殿別邸の静かな広間に、抗いようのない冬の匂いだけを運び続けていた。




