25-16
黄金の草原に、ようやく真の静寂が訪れた。舞い上がっていた砂塵は冬の冷たい風に押し流され、移動都市の広場には、金属が軋む音と、遠くで待機する王国軍車両のアイドリング音だけが低く響いている。
アレン・ヴァルグレイは、漆黒のコートの襟を正すと、無造作に右手を挙げた。その指先が空を切ると、アーク・リンクから放たれた青白い光が空中で結像し、巨大なホログラムウィンドウが広場の中央に展開された。
「……エリシア陛下の言っていた通りだな。この国は、誇りと恐怖の危うい均衡だけで立っている」
アレンの脳裏には、ガルディアを発つ直前、執務室の窓際でエリシアが漏らした憂いを含んだ声が蘇っていた。『アレン殿、カザリアの部族制は現代魔導文明の皮を被った、繊細なガラス細工です。一度亀裂が入れば、力による修復は不可能ですわ』
アレンは一歩前に出た。玉座を背負うザイロス王と、部族の旗の下に立つセルディオ、双方の魂を射抜くように見据える。周囲を取り囲む長老たちと戦士たちも、固唾を呑んでその一挙一動を見守っていた。
「王国側、そして部族側。双方に提案がある。……これを受け入れるか、あるいは、この草原を共倒れの墓場にするか。選ぶのはあんたたちだ」
空中に浮かぶホログラムには、エリシアの知恵とアレンの「守るべきものは守る」という意志が結晶した、五つの和平条項が映し出された。青白い光の文字列が、乾いた冬の空気の中で静かに揺らめいている。
「第一に、部族自治の強化。移動都市の行政権を部族長会議へ正式に譲渡しろ。第二に、王国軍の再編。徴税官による過度な干渉を禁じ、兵の暴走を防止する厳罰規定を設ける」
獣人の戦士たちが、息を呑む音が聞こえた。彼らが手にしていた、『他国』から与えられた黒鋼色の魔導槍が、わずかに震える。
「第三に、これが最も重要だ。『混血保護法』の制定。血の混じり方を理由とした一切の差別を法的に禁じ、市民としての権利を保障する。第四に、部族紋章の使用を完全に自由化すること。……そして最後に、王国軍と各部族による『共同警備隊』を設置し、草原の治安を双方が担うことだ」
アレンの提示した「五つの案」は、王国には存続を、部族には尊厳を約束するものだった。特に「共同警備隊」という言葉は、部族の長老たちの心に、かつてない重みを持って響いた。それは、自分たちが「管理される資源」ではなく、「共に国を支える主体」として認められたことを意味していた。長老の一人が、無言のまま己の胸元を強く押さえていた。
「……アレン殿。それは、王権の一部を部族へ切り出すに等しい」
ザイロス王が、苦渋に満ちた表情で声を絞り出した。重厚な黒曜石の床を、彼の握りしめた拳が震わせる。だが、王の琥珀色の瞳は、アレンの背後に立つ三人の誓導者が放つ、一分の揺らぎもない安定した魔力循環――「三拍子の鼓動」を無視することはできなかった。一滴の血も流さずに、この場の狂乱を鎮めてみせた「理外」の絶技。それを前に、もはや武力という選択肢は消滅していた。
「……だが、王国が灰になるよりはマシか。よかろう。戦争回避を最優先とし、提案を受け入れる」
王の決断に、周囲の騎士たちが沈黙を持って従い、剣を鞘に収めた。金属の擦れる乾いた音が、広場のあちこちで小さく響いた。
「……部族の長たちは、どうだ」
セルディオ・ラグランが、背後の同胞たちを振り返った。長老たちは互いに視線を交わし、やがて一人が重々しく頷いた。
「……我々を人間と対等に扱うというのなら、これ以上の血を流す理由はどこにもない。……『あの男』から与えられた正義よりも、目の前の子供たちの明日の方が重い」
合意の言葉が、冬の草原を渡る風に乗って広がっていく。誰かがそっと魔導槍を地面に置き、両手を静かに開いて見せた。
「…………」
セルディオは何も言わなかった。ただ、静かに目を閉じ、アレンの提案に対して一度だけ深く頷いた。かつての主からも、部族の仲間からも得られなかった「居場所」の在り方を、理外の男が示した、血に染まらない「盾」の形を、彼はその魂に刻み込んでいた。彼の瞼の裏には、あの少年の亡骸と、それを抱いて泣き崩れた母親の姿が、まだ鮮やかに残っていた。
冬の乾燥した風が、部族の旗と王国の旗を同時に激しく揺らす。カザリアの歴史に刻まれるはずだった凄惨な悲劇は、一人の「零番」による不器用で冷徹な介入によって、共生への第一歩へと強引に塗り替えられた。
アレンはホログラムを消去すると、漆黒のコートを翻して歩き出した。リィナは静かにその隣に寄り添い、セリスは一国の騎士としての礼節を持ってザイロス王に一礼し、サツキは薙刀を背に、アレンの死角を埋めるように従った。四人の足並みは揃っており、彼らの背後に広がる広場では、双方の戦士たちが少しずつ武器を収め、互いに視線を交わし始めていた。
「アレン様、本当によかった……」
リィナが安堵の溜息とともに、隣の横顔を覗き込んだ。
「……俺は止めただけだ。……あとは、奴らが決めることだ」
アレンの言葉は短く、相変わらず温度を欠いていたが、その漆黒の瞳には、冬の陽光を受けた草原の輝きが静かに映り込んでいた。彼の視線は、一度だけ振り返って部族の旗と王国の旗が並んで揺れる光景を捉え、それからまた前方へと戻された。
草原を抜ける風は、依然として冷たかったが、その中に含まれていた張り詰めた殺気は、もはや跡形もなく消え去っていた。移動都市の巨大なコンテナが夕暮れ前の淡い光を受けて、鈍く輝きを放っている。遠くで王国軍の車両がエンジン音を響かせながら、静かに撤収の準備を始めていた。長老たちが互いに何かを話し合う声が、風に乗って断片的に聞こえてくる。四人の背中を見送るセルディオの瞳には、まだ言葉にならない感情が渦巻いたまま、静かに揺れ続けていた。




