25-15
アレン・ヴァルグレイが示した「理外の慈悲」が、凍てついた移動都市の広場に重苦しい静寂を強いていた。衝撃波によって吹き飛ばされた獣人戦士たちは、痛み一つない自身の身体を確かめ、戦意を喪失したまま呆然と地を這っている。だが、その静寂は広場の外縁――王国軍の駐屯地と対峙する「前線」からの咆哮によって無残に引き裂かれた。
「今だ。王国の増援が来る前に、あの軟弱な連中を叩き潰せ。奪われた誇りを取り戻すのだ」
独立派の中でも過激な主張を繰り返す強硬派の戦士たちが、咆哮と共に『他国』から供与された黒鋼色の魔導槍を天に掲げた。対峙する王国軍の兵士たちもまた、未知の兵器を構える獣人たちへの恐怖と差別意識を剥き出しにし、魔術銃の引き金に指をかける。
一陣の風が草原を駆け抜け、乾いた砂塵を巻き上げる。一度でも火蓋が切られれば、カザリア全土を焼き尽くす泥沼の内戦は、もはや誰にも止められない。破滅へのカウントダウンが、冬の草原に不気味な拍動を刻み始めた。地面に転がる槍の穂先が、鈍く光を反射しながら微かに震えていた。
「──そこまでだ。武器を引け」
雷鳴の如き一喝が、戦場を震わせた。突撃を開始しようとした強硬派の真っ只中に、一筋の烈風が舞い降りる。カザリア王国の元・特級魔軌士No.5、セルディオ・ラグラン。
アレンとの戦闘で受けた凄まじい衝撃の余韻に、その身体は未だ微かに震えている。だが、立ち上がった彼の琥珀色の瞳には、絶望の澱を焼き払った、一点の曇りもない武人の光が宿っていた。
「セルディオ様、退いてください。王国の犬どもに、我らの血の報いを受けさせるのです」
「聞こえなかったのか。この先へは一歩も通さんと言っている」
セルディオは愛剣を水平に構え、自らの同胞たちの行く手を遮った。彼の全身から溢れ出したのは、王国騎士としての洗練された魔力ではない。自らのルーツである獣人の本能を、武人としての強靭な意志で調律した、禍々しくも澄み渡った魔力圧であった。彼の背後に立つアレンの姿を、意識せずとも肌で感じ取っているかのように、その足取りには一切の迷いがなかった。
「なぜです。あなたもあの日の悲劇を見たはずだ。汚らわしい王都を、あの兵士どもを灰にするのではなかったのか」
「……ああ、見たさ。だがな、俺たちは『あの男』に唆されているに過ぎない」
セルディオの声は、低く、地を這うような重みを伴って響いた。彼は自身の掌に握られた黒鋼色の魔導剣――どこか遠い他国の技術が結晶した「死の道具」を、忌々しげに一瞥した。
「戦争を始めれば、守りたいものがもっと死ぬ。あの日の子どものような骸を、俺たちの手で何百倍にも増やすつもりか。誇りを守るために戦う? 笑わせるな。家族を、故郷を、この草原を灰にして残る誇りに、一体何の意味がある」
セルディオの魂からの叫びが、荒れ狂う戦士たちの熱狂を急速に冷却していく。彼は自身の背後に立つアレン――一滴の血も流さずにこの場を支配してみせた「天災」の背中を、その脳裏に焼き付けていた。若い戦士たちの構えていた槍の切っ先が、次第に下がり始めていた。
「俺たちが本当に守るべきは、憎しみの連鎖じゃない。この草原で共に生きる、命そのものだ。……俺は、どこかの他国の正義を借りてまで、同胞を殺める道具になる気はない」
セルディオの放つ烈しい闘気が、強硬派の戦士たちを圧倒した。それは敵を屠るための刃ではなく、踏みとどまらせるための「盾」としての武威。突き出されていた魔導槍が、一本、また一本と力なく下げられていく。誰かが低く息を吐き、隣の仲間と目配せを交わす様子が、広場のあちこちで見られた。
王国軍側の兵士たちも、セルディオの凄まじい気迫に圧され、魔術銃を構える手を震わせながら、じりじりと後退を始めた。
「……セルディオ様がそう仰るなら……」
若き戦士たちが顔を見合わせ、苦渋を滲ませながらも武器を鞘に収めた。狂乱に包まれていた移動都市の空気は、沈痛な、しかし静かな「理解」へと変わっていった。
セルディオは深く、長く息を吐き出すと、魔導剣を鞘へと戻した。その背中に、足音一つ立てず、アレンがゆっくりと歩み寄った。漆黒のコートが草原の風に揺れる。
二人の特級魔軌士の視線が、冬の空の下で静かに交差した。
「……礼を言う」
アレンが口にしたのは、短く、装飾を削ぎ落とした言葉であった。
「……勘違いするな、零番。お前のためにやったわけじゃない」
セルディオは不器用に視線を逸らし、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「俺は……俺の守りたかったものを、今度こそ選び取っただけだ。……お前のその『不条理な強さ』に、毒気を抜かれたのも事実だがな」
リィナはアレンの傍らで、二人の間に流れる「濁りのない波長」を感じ取り、胸を撫で下ろした。サツキは《朧月》を構えたまま、セルディオが下した決断の重みを、同じ武人として噛み締めていた。セリスは、草原に翻る部族の旗を見つめ、これ以上の戦火が遠のいたことを、一国の騎士として確信していた。彼女の緊張していた肩から、静かに力が抜けていくのが見て取れた。
黄金の草原に、不毛な戦火は灯らなかった。理外の男が示した「戦わぬ証明」と、折れかけた盾が自らの意志で繋ぎ止めた「誇り」。二つの魂が共鳴した瞬間、カザリアの未来を分かつ絶望の歯車は、確かにその回転を止めたのである。
広場に集った戦士たちは、それぞれの武器を静かに下ろしたまま、しばらく動くことができずにいた。土に伏していた者たちも、傷一つない自らの体を確かめながら、ゆっくりと立ち上がり始めている。冬の陽光が雲間から一筋差し込み、乱れた土と、静まり返った獣人たちの背中を、淡く照らし出していた。誰かが低く嗚咽を漏らす声が聞こえたが、それはもはや怒りではなく、張り詰めていた何かがようやく緩んだ証のようだった。セルディオは鞘に収めた剣の柄に手を置いたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。




