25-12
冬の草原に、乾いた不協和音が鳴り響いた。巻き上げられた砂塵を切り裂き、セルディオ・ラグランの姿が視界から掻き消える。
(速いな……)
かつて帝都で、あるいはバルムートで見せた軽薄な騎士の動きではない。セルディオは「他国」から供与されたらしい不気味な黒鋼の魔導剣に、風の身体強化魔術を幾重にも重ね掛けし、人理を超えた速度で肉薄してくる。真空の刃を伴った鋭い刺突が、アレンの首筋へと一閃。
アレンは漆黒のコートを風にたなびかせたまま、無造作に右手をポケットから抜き、指先を軽く弾いた。
──パチン。
「なっ……ッ」
セルディオの絶叫が風に流される。その手にある魔導剣に纏っていた苛烈な風の魔術が、霧散するように消滅した。魔術式を根源から破壊する理外の権能――《魔術消去》。刀身に纏っていたはずの陽炎じみた輝きが、まるで最初から存在しなかったかのように、綺麗に消え失せていた。
だが、王国最強の盾と呼ばれた男は止まらなかった。魔術が消されたと悟った瞬間、彼は剣筋を力技でねじ込んだ。魔術式という設計図を介さない、長年の修練に裏打ちされた純粋な武技。その一撃が、アレンの喉元を正確に貫こうとする。
アレンは僅か数ミリの差でそれを回避した。流れるような最小限の足運び。アレンは反撃せず、ただ嵐のような連撃を無力化することにのみ専念していた。かつてアグニスの闘技場で四人の特級魔軌士を手玉に取った時と同じく、彼はセルディオの剣速に、完全に自身の速度を「合わせて」いたのである。地面を蹴る音、刃が空を裂く音だけが、広場の緊張した静寂の中に幾重にも重なっていった。
「……やはり、魔術式を壊すだけでは止まらんか」
アレンの極低温の独白が、激しい剣戟の音に混ざる。セルディオの琥珀色の瞳が、獣のように野生的な光を宿し始めた。
「なら、これはどうだ……。術式なんて等閑なもの、俺は既に捨てた」
セルディオの全身から、これまでにない濃密な魔力が噴き上がった。それはカザリアの獣人の血が呼び覚ます、“本能的魔力”。魔術式という論理を介さず、血肉を通じて直接体現される原始の力だ。剣身から立ち昇る陽炎が、周囲の乾いた大気を歪めるように揺らめいた。
「……ッ」
《魔術消去》が効かない。破壊すべき「式」が存在しない純粋な魔力の奔流が、爆発的な瞬発力となってアレンを襲う。アレンの動体視力をもってしても、その速度は限界の領域に達していた。セルディオの剣がアレンの頬を微かに掠めたと思った瞬間、パリンとリィナの《三重魔導護膜》がその剣先を弾く。硬質な破砕音が、一瞬だけ広場の空気を切り裂いた。
「そこまでだ、セルディオ」
アレンが初めて、自分から踏み込んだ。セルディオの懐、魔導剣が届かぬ死角へと音もなく潜り込む。その動きは、リィナの防御もセリスの攻撃も必要としない、アレン自身の「武」の極致であった。
「な、に……ッ」
アレンの掌が、セルディオの胸元に吸い付くように置かれた。発動するのは、衝撃を制御する唯一無二の理――《衝撃制御》。
「──零距離衝撃」
ドォォォォォォン。
凄まじい衝撃波が、移動都市の中央広場を物理的な質量で揺らした。セルディオの巨体が、まるで見えない巨人に押し流されるように後方へと吹き飛ぶ。数十メートルもの距離を滑り、彼は連結された魔導コンテナの壁面に背を預けて止まった。その衝撃で、コンテナの外壁が鈍い音を立てて軋んだ。
「ガハッ……ッ、ぐ、あ……」
セルディオは膝を突き、激しく咳き込んだ。だが、外傷はない。骨も折れていなければ、内臓へのダメージも皆無。ただ、戦意を削ぎ落とすほどの圧倒的な「衝撃」だけが、彼の肉体を支配していた。彼の指先が、地面に着いたまま僅かに震えている。
アレンはゆっくりと手を下ろし、荒い息をつくセルディオを温度を欠いた眼光で見下ろした。その瞳には、かつて別邸の廊下でサツキに告げた時のような、不器用な誠実さが宿っていた。周囲を包む砂塵が、静かに舞い落ちていくのを、二人はしばらく見つめ合ったまま動かずにいた。
「戦争を始めれば……お前が語ったあの子どものような犠牲が、もっと増えるだけだ」
アレンの言葉は、酷く静かだった。彼の背後では、広場に集った獣人戦士たちが、何が起きたのか理解しきれないまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「お前の守りたかったものは、本当に戦火の中にしかないのか。……『ある男』から与えられた正義で、その誇りを汚すつもりか」
セルディオは、震える手で地面の雪を掴んだ。向けられた殺意ではなく、突きつけられた「現実」。王国最強の盾と呼ばれた男の心が、冬の風の中で激しく揺らぎ始めていた。掴んだ雪が、彼の指の熱でわずかに溶け始め、掌の中でしんと冷たい水となって滴り落ちていく。
広場を取り囲む戦士たちは、依然として武器を構えたまま、しかしその手はもはやどこへ向ければいいのか分からなくなっているようだった。長老たちの一人が、コンテナの陰から静かにこの光景を見つめている。誰も言葉を発せぬまま、乾いた風だけが、広場の砂塵を巻き上げては、静かに地面へと落としていった。セルディオの荒い息遣いだけが、いつまでもその場に響き続けていた。




