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カザリア王宮、国王執務室。磨き抜かれた黒曜石の床には、天井の魔導灯が放つ無機質な白光が反射し、冬の草原を渡る冷たい風が、二重の防魔ガラスを叩いて不気味な不協和音を奏でていた。
重厚な電子ロックが解除される乾いた音が響き、扉がゆっくりと開かれた。足を踏み入れた二人の女性――カレン・ミストリアとリディア・フェルシアの姿に、玉座の国王ザイロス・カザリアは息を呑んだ。
二人の表情は、冬の草原よりも凍てついていた。カレンの淡い金の髪は乱れ、常に揺るがぬ自信を湛えていた青い瞳には、底知れぬ喪失の影が落ちている。リディアは歩くことさえままならぬ様子で、その手は自身の胸元を、剥がされた皮膚の痛みを確認するように強く握りしめていた。二人が纏う防寒着の裾には、まだ草原の白い雪が乾ききらずに付着していた。
「……報告いたします」
カレンの声は、乾いた砂のように掠れていた。彼女は玉座の前で深く膝を突き、震える指先で自身のアーク・リンクを起動した。宙に浮かび上がった青白いホログラムウィンドウには、王国の騎士団名簿が表示されている。そこには、魔軌士No.5――セルディオ・ラグランの署名が赤く点滅し、やがて【登録抹消】という冷酷な文字列へと書き換えられた。文字が浮かび上がる短い間、室内には誰の呼吸音すら聞こえなかった。
「マスター・セルディオは、王国への忠誠を破棄。……牙族を主軸とする獣人独立派へ合流いたしました」
「……何だと……っ」
ザイロスが弾かれたように立ち上がり、執務机を激しく叩いた。重厚な木材が悲鳴を上げ、机上の資料が雪のように舞い散る。散らばった書類の一枚が、彼の足元にひらりと落ちて止まった。
「あいつは王国最強の盾だぞ。このカザリアの誇りであり、部族連合を繋ぎ止める楔ではないか。それが、何故……」
「……魔力循環誓約は、双方の合意により、先ほど正式に解除されましたわ」
リディアが涙を堪えるように声を絞り出した。彼女の深層回路には、未だに「断絶」の残響が棘のように刺さっている。繋がっていた魂が力ずくで引き剥がされたことによる激しい眩暈と、心臓を半分抉り取られたかのような虚無感。アーク・リンクに表示される主の魔力波長ログが完全に消失しているその現実は、何よりも雄弁に彼女たちの敗北を物語っていた。ホログラムの中に空白として残された座標だけが、かつてそこに確かに存在した絆の輪郭をなぞっていた。
ザイロスは力なく椅子に崩れ落ち、額を拳で押さえた。特級魔軌士の離反は、単なる一戦力の喪失ではない。それはカザリア王国という国家が長年維持してきた抑止力、その根幹が崩壊したことを意味する。最強の盾が最強の刃に変わったのだ。彼の脳裏には、これまで積み上げてきた部族統治の均衡が、音を立てて崩れ落ちていく光景が鮮明に浮かんでいた。
「陛下……楽観視はできません。王国軍の一般兵では、彼を止めることは不可能です」
カレンが厳しい表情で、絶望に沈む王を射抜いた。彼女の声には、先ほどまでの震えはもはや残っておらず、代わりに武人としての冷徹な現実認識だけがあった。
「特級魔軌士を敵に回すということは、一人で戦争を終わらせる『怪物』を解き放ったのと同じこと。……今の王国に、彼と対等に渡り合える武人は存在しませんわ」
沈黙が室内に重くのしかかる。ザイロスは拳を強く握りしめ、自身の無力さと、秩序を維持するための法が最強の味方を裏切り者へと変えてしまった皮肉に、奥歯を噛み締めた。窓の外では、黄金の草原を照らしていた陽光が翳り、不吉な雪雲が空を覆い始めている。ガラス越しに見える鈍色の空は、まるで王国そのものの未来を暗示しているかのようだった。
「……もはや、一国で処理できる段階ではないか」
ザイロスの琥珀色の瞳に、冷徹な外交官としての光が宿った。彼は震える手でデスクのコンソールを操作し、最優先秘匿回線を起動した。コンソールに触れる指先は、先ほどまでの動揺を押し殺すように、わずかに硬さを帯びていた。
「魔軌士局へ通達しろ。契約違反による緊急介入を要請する」
王の声には、自国の『武』が敗北したことを認める屈辱と、それでも国家を守り抜くという悲痛な決意が混ざり合っていた。
「……呼び出せ。あの男を。理外の魔術師、世界最強の象徴──」
「──魔軌士No.0、アレン・ヴァルグレイを」
その名が口にされた瞬間、室内の魔導照明が、王の昂ぶった魔力に共鳴するように一瞬だけ激しく瞬いた。壁に長く伸びた三人の影が、その明滅に合わせて微かに揺らめいた。
リディアは俯いたまま、音もなく流れる涙を石床に落とした。胸の奥には、無理やり引き剥がされた魔力循環の『空白』が、熱を失った傷口のように残り続けている。
かつての主を討つために、世界最強の天災を招く。その選択が、カザリアという国にとってどのような意味を持つのか。彼女には、まだその全貌を見通すことができなかった。
ただ、これから起こることの重大さだけが、震える指先を通じて実感として伝わってくるようだった。
吹き荒れる草原の風が、王宮の重厚な壁を鳴らしていた。
王国最強の盾が砕け、大陸の均衡を根底から揺るがすカザリア内乱の戦火は、もはや誰にも止められない猛火となって、静かに、そして確実に燃え広がろうとしていた。
窓の外に広がる曇天は、いよいよその重みを増し、地平線の彼方から新たな寒波の気配を運んできていた。執務室に残された三人は、それぞれの立場で、これから訪れるであろう激動の予感に、ただ静かに身を委ねるしかなかった。カレンは深く一礼すると、リディアの肩をそっと支えながら、退室のために身を翻した。
二人の足音が、重い沈黙の中に規則正しく響いて、やがて扉の向こうへと消えていった。




