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カザリア北部の広大な草原を、肌を刺すような冬の乾燥した風が吹き抜けていた。足元の白い雪は、先ほど射殺された少年の鮮血によって毒々しいまでに赤く染まっている。その凄惨な景色の中心で、王国最強の「盾」と呼ばれた魔軌士No.5、セルディオ・ラグランは、自らの魂を繋ぎ止めていた最後の鎖を断ち切ろうとしていた。
「……本気なのですか、マスター・セルディオ」
第一誓導者カレン・ミストリアの震える声が、乾いた空気に溶けていく。彼女の銀金色の髪が激しい風に乱れ、透き通るような青い瞳には、信じがたいものを見るような絶望が浮かんでいた。指先が防寒着の裾を、無意識のうちに強く握りしめている。
「本気だよ、カレン。……俺の魔力回路の深層に流れるこの『濁り』は、どれだけ王国の法で塗りつぶそうとしても消えはしなかった。この子の死は、俺に突きつけられた最後の忠言だ。……俺は、俺と同じ血が流れる連中のために、その槍を振るうことに決めた」
セルディオの声には、これまでの軽薄な響きは微塵もなかった。そこにあるのは、長年の差別と疎外感によって磨り潰され、臨界点を超えた「絶望の重み」そのものだった。その背後では、他国から供与された洗練された魔導器を携えた牙族の戦士たちが、静かに、しかし確かな連帯を持って控えている。彼らの吐く白い息が、寒風の中で次々と生まれては消えていった。
傍らに立つ第二誓導者、リディア・フェルシアが、堪えきれぬように嗚咽を漏らした。快活だった彼女の表情は崩れ、淡い赤髪のショートカットが激しく小刻みに震えている。
「……ですが、私たちは王国に籍を置く公的な身です。マスターが反逆の道を行くというのなら……私たちは、共に歩むことはできませんわ。それは……この国で信じてきた秩序への、決定的な裏切りになってしまう」
カザリアの法。王国への忠誠。彼女たちが積み上げてきた年月は、セルディオへの愛情と同じくらい、重く、逃れがたい義務としてその肩にのしかかっていた。二人が学院を出てから今日までの日々――厳しい訓練、初めての遠征、幾度となく分かち合った戦場の記憶――それらすべてが、リディアの震える瞳の奥で走馬灯のように過ぎ去っていくようだった。
「……分かっている。だからこそ、だ」
セルディオは、二人の誓導者と向き合うようにゆっくりと位置を変えた。三人が描く形は、かつて迷宮の深層で死線を潜り抜けた時と同じ、完璧な正三角形の陣。だが、今から行われるのは守護のための連携ではなく、魂を切り裂くための葬送であった。
「魔力循環誓約 ── 解除を申し出る。……俺のような裏切り者に、お前たちの未来を縛る資格はない」
カレンが、血が滲むほどに唇を噛み締め、一歩前へ踏み出した。その足取りには迷いがなかったが、彼女の視線はほんの一瞬、少年の骸が横たわっていた場所へと流れ、そしてすぐに主へと戻された。
「……承知、いたしました。カザリア王国第一誓導者カレン・ミストリア、解除要請を受理します」
三人が同時に魔力を練り上げた。かつては心地よい共鳴を奏で、アレン・ヴァルグレイたちの「三拍子の鼓動」にも劣らぬ安定を誇った円環の回路が、不気味な高周波を立てて逆回転を始める。周囲の雪が、その異様な振動に呼応するかのように、細かく震えながら舞い上がった。
── パリンッ……。
虚空に浮かび上がった光の鎖が、ガラス細工のように脆く砕け散った。繋がっていた魔力の糸が一本ずつ、生爪を剥がされるような鋭い痛みとともに引き剥がされていく。魂の署名が消去され、循環が止まった瞬間、セルディオの内側にあった二人の温かな熱量が、底冷えのするような虚無感へと上書きされた。
「っ……あ、ああ……」
リディアがその場に膝を突き、積もった雪に指をめり込ませた。魔力循環の断絶による激しい眩暈と、心臓を半分抉り取られたかのような喪失感。彼女の頬を一筋の涙が伝い、凍てついた石床へと落ちる。凍る前に落ちたその一滴は、地面に触れた瞬間、白い雪の上にごく小さな染みを残して消えていった。
「……これで、私たちは赤の他人です。次に相見えるときは、王国の法の下、あなたを討たねばならないかもしれません」
カレンの声は、もはや震えてはいなかった。それは武人としての、そして誓導者としての最後の矜持。彼女は深々と一礼し、溢れそうになる感情を鉄の意志で封じ込めた。その姿勢の中に、これまで積み重ねてきた誓導者としての誇りの、最後の残り火が確かに宿っていた。
「……ああ。達者でな。……カレン、リディア。今まで、俺のような『混じりもの』を支えてくれて、ありがとう」
セルディオは一度だけ短く礼を告げると、迷いなく背を向け、牙族の戦士たちの中へと歩みを進めた。彼の足取りは重く、しかしその瞳には、男が囁いた「別の正義」を宿した、暗く烈しい炎が燃え盛っていた。一歩ごとに雪を踏みしめる音が、静まり返った草原に規則正しく響いていく。
遠ざかっていく主の広い背中を、二人の誓導者はただ、静まり返った草原の中でいつまでも見つめ続けていた。カレンはリディアの肩に手を置き、崩れ落ちそうになる彼女の身体を支えていた。二人の吐く白い息が、絶え間なく風に流されては消えていく。
草原を吹き抜ける風が、牙族の旗を不吉に打ち鳴らす。王国最強の盾が砕け、大陸の均衡を根底から揺るがすカザリア内乱の戦火が、ついに修復不可能な形で燃え上がろうとしていた。曇天の彼方から、また新たな雪の気配が忍び寄っていた。カレンとリディアは、その場に立ち尽くしたまま、遠くに見えなくなるまでセルディオの背中を追い続けていた。誰かが動き出すまで、その場所には長い間、二人の女性の影と、消えかけた円環の残響だけが、静かに漂い続けていた。




