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冬の乾燥した風が、地平線まで続く黄金の草原を荒々しく吹き抜けていた。カザリア王国北部。かつては騎馬部族が風を友として駆けたこの大地も、今では等間隔に並ぶ巨大な送電鉄塔と、王都から伸びる黒い舗装道路によって、無機質な魔導文明の地図へと書き換えられている。乾いた土埃が風に巻かれ、道端に生えた枯草の間を音もなく滑っていった。
その北部街道の脇にある小さな広場が、今、張り詰めた殺気と焦げた火薬の匂いに支配されていた。
「止まれと言っている。その手に持っているものを捨て、地面に伏せろ」
王国軍巡回隊の分隊長が、苛立ちを隠さずに怒鳴り散らした。彼の構える標準型魔術銃の銃口は、一人の少年に向けられている。十歳にも満たないであろう獣人の少年は、泥に汚れた服のまま、震える手で一つの「塊」を胸に抱きしめていた。それは牙族の誇りを象徴する、古びた木彫りの紋章だった。表面は幾度も磨かれた跡があり、彫り込まれた文様の輪郭はすでに丸みを帯びている。
「こ、これは僕たちの宝物なんだ。悪いことなんてしてない」
「黙れ。独立派のシンボルを掲げる行為は、王国治安維持法に対する明白な反逆だ。……それに、お前たちが持っているその通信機はどうした。カザリアの規格ではないはずだぞ」
分隊長の視線は、少年の背後に立つ若者たちが握る、不自然に洗練された黒鋼色の通信端末に向けられていた。それは秘密裏に供与された、最新鋭の非公開規格モデル。カザリアの粗野な魔導工学とは一線を画す、滑らかな幾何学模様が刻まれたその端末は、草原の鈍い陽光を不気味に反射していた。
「……チッ、これだから『混じりもの』は。……おい、力ずくで奪い取れ。抵抗するなら射殺も厭わん」
兵士たちの間に、底冷えのするような差別意識が伝播していく。彼らにとって、獣人の血が混じった部族民は、守るべき国民ではなく、管理すべき「資源」か、排除すべき「異物」に過ぎなかった。張り詰めた緊張の中、一人の兵士が強引に少年の胸ぐらへ手を伸ばした。
「やめろ。返せ」
少年が必死に抵抗し、兵士の手を振り払おうとした、その刹那だった。乾燥した冬の空気を切り裂き、乾いた音が響き渡った。
──パァン。
一瞬の静寂の後、少年が糸の切れた人形のように仰向けに倒れ込んだ。胸元から溢れ出した鮮烈な赤が、白く凍てついた地面を瞬く間に染め上げていく。土に染み込む前の、湯気を微かに立てるほどの熱を帯びたその赤色が、広場の冷気の中で異様なまでに鮮やかだった。
「あ……あ……あぁぁぁぁぁぁッ」
母親と思われる獣人の女性が、喉を掻き切るような悲鳴を上げて駆け寄った。彼女の手の中で、少年の瞳から急速に光が失われていく。握りしめられていた牙族の紋章が、血の海の中に転がり、無造作に汚された。木彫りの表面に赤い筋がゆっくりと這い、乾いた地面へと滲んでいった。
「……っ、違う。暴発だ。こいつが急に動くから……」
銃を構えていた兵士の顔から血の気が引く。だが、その言い訳は、周囲を取り囲む部族民たちの絶望に火を付けるには十分すぎた。殺気はもはや抑えきれぬ濁流となり、広場を飲み込もうとしたその時――。
シュンッ。
風を切る鋭い音と共に、一人の男が広場の中央へと舞い降りた。特級魔軌士No.5、セルディオ・ラグラン。彼は周囲の混乱を一瞥で沈黙させると、一切の感情を排した足取りで、血に沈む少年の傍らへと歩み寄った。
「No.5。助かりました、こいつらが急に……」
兵士の報告を、セルディオは片手を挙げて制した。彼は膝を突き、冷たくなっていく少年の首筋に指先を触れさせた。指先が触れた瞬間、まだ微かに残る体温と、その奥で急速に失われていく命の気配が、彼の掌に生々しく伝わってきた。
「《魔力波長解析》」
セルディオの指先から、目に見えぬ無属性の魔力触手が少年の体内へと浸透していく。読み取ったデータが、彼の脳内に残酷な真実を映し出した。
(…………やはり、そうか)
セルディオの表情が、一瞬で氷のように凝固した。少年の魔力波長の深層――そこには、三世代前に混じったとされる、人間と獣人の境界線上で激しく波打つ「混血」特有の微細なノイズが刻まれていた。それは、セルディオ自身の魂に刻まれているものと、鏡写しのように酷似した「呪いの署名」であった。
(この子は……俺だ。俺と同じ血を流し、俺と同じように忌み嫌われ……そして、俺が守るべき『秩序』によって殺された)
セルディオの脳裏に、数分前の王宮での回廊、ある男から告げられた言葉が、不快な高周波のようにリフレインした。『君の本当の価値を理解しているのは……決断の刻は、向こうからやってくるものだ』。
これまで「王国の最後の盾」として積み上げてきた年月、カレンやリディアと共に駆け抜けた草原の記憶、そして王への忠誠心――。それらが今、目の前の少年の「赤」によって、あまりにも呆気なく、そして修復不可能なほど粉々に砕け散っていった。積み上げてきたはずのものが、砂の城のように、たった一発の弾丸で崩れ去っていく感覚を、セルディオは全身で味わっていた。
セルディオは立ち上がり、少年の返り血が付いた自分の右手をじっと見つめた。掌に残る赤の温もりが、まだ完全には失われていない。その瞳に宿ったのは、軽薄な笑みでも、武人としての冷静さでもない。底知れぬ深淵から這い上がってきたような、極低温の「絶望」と「殺意」であった。
「……セルディオ様? いかがなさいましたか」
不審に思った分隊長が声をかけた、その瞬間。セルディオの全身から、アーク・ジャマーさえも焼き切るような、悍ましいまでの漆黒に近い風の魔力圧が爆発した。広場の砂塵が一斉に舞い上がり、送電鉄塔の影に沿って渦を巻いた。
「……どけ。お前たちのその汚らわしい視界に、俺を入れさせるな」
それは「カザリアの盾」としての自分を、彼自らの手で埋葬する葬送の言葉であった。セルディオは腰の魔導剣の柄を、砕けんばかりの力で握りしめた。指の関節が白く浮き出るほどの力が、その一挙一動に滲んでいた。
空を覆う厚い雪雲の向こうから、他国の影が、巨大な鎌を振り下ろそうとしている気配がした。蓄積されてきた絶望という名の火種が、ついにこの草原に、消えない戦火を灯そうとしていた。兵士たちは後ずさり、その場に立ち尽くすことしかできなかった。母親の慟哭だけが、いつまでも広場に響き続けていた。




