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アグナードの夜は、ガルディアのそれとは対照的な「赤」に支配されていた。窓の外に広がるのは、夜闇を焦がす溶鉱炉の光と、数十本の煙突から吐き出される火の粉の舞。そして、大地を規則正しく揺らし続ける、超大型ピストン式の電動鍛造プレス機の重低音が、ホテルの防魔壁を抜けて微かな振動として伝わってくる。窓硝子に映る夜景は、ガルディアの穏やかな灯りとはまるで違う、荒々しい生命の脈動を映し出していた。
王都最高級『ヴァルシオン・ホテル』の最上階スイート。その一室に、予期せぬ客が訪れたのは深夜二時を回った頃であった。廊下からの足音は静かで、規則正しい鍛造の音にほとんどかき消されていた。
「……護衛なしとは、豪胆だな。あるいは、自惚れか」
アレン・ヴァルグレイがソファから立ち上がり、重厚な電子ロックを解いて扉を開けた。そこには、王の正装ではなく、使い古された一振りの剣を帯びただけの国王ヴァルガン・アグニスが立っていた。その姿には、昼間の闘技場で見せた豪快さの欠片もなかった。
「この国で、今の貴殿を害せる者などおらん。側近など、かえって情報の漏洩を招くノイズに過ぎんよ」
ヴァルガンはアレンの対面に深く腰掛け、長く、重い吐息をついた。昼間のお披露目試合で見せた豪胆な覇王の顔はそこになく、あるのは一国の主としての苦渋を瞳に沈めた、一人の老兵の姿であった。ソファに沈み込む彼の体躯は、まるで一晩のうちに幾つも歳を重ねたかのように重く見えた。
「アレン殿。貴殿の剣は、この国の騎士道の根底を覆した。……だが、同時に私を救ってもくれたのだ」
ヴァルガンはテーブルの上に一枚のホログラムマップを展開した。青白く発光する三次元地図には、アグニス国内の軍事拠点と、不自然な魔力集積地点が赤く強調されている。地図の光が、室内の薄闇にわずかな青の陰影を投げかけていた。
「アグニスは『武の国』だ。だが、最近は軍内部で不当な強硬論が勢いを増している。奴らは魔術を『脆弱な者の小細工』と軽視し、純粋な物理火力と武力による領土拡張を夢想しているのだ」
アレンは沈黙したまま、漆黒の瞳で地図を見つめた。かつて帝都で「黒鋼派」を消し去った時、その負の連鎖は断ち切ったはずだった。だが、力への渇望という名の癌細胞は、別の国家、別の「武」の内側で新たな形を持って増殖を始めていた。その事実に、彼の胸の奥で何かが静かに重くなった。
「六月のバルムートでの首脳会談(WFS)には気をつけろ。あそこが分水嶺になる」
ヴァルガンはアレンの目を真っ直ぐに見据え、声を潜めた。皺の刻まれた顔に、蝋燭の火が揺らめくような不安定な光が差していた。
「騎士の国としてではなく、友として警告する。影で動いているのは、もはや帝国だけではない。……何かが、この大陸の理そのものを、根底から引き剥がそうとしている気配がするのだ」
「……忠告に感謝する。ガルディアも、不要な戦乱は望んでいない」
アレンはゆっくりと頷き、右手を差し出した。二人の男の間で交わされた、言葉なき密約。それは崩れゆく大陸の均衡を支えるための、人知れぬ楔となった。握手を交わす両者の手には、それぞれの国を背負う者としての重みが確かに宿っていた。
翌朝、アグナード国際空港。朝日を浴びて、ガルディア公国専用の魔導航空機が離陸の時を待っていた。滑走路に降りた朝露が、朝の光を受けて微かに輝いている。
タラップの前で見送りに立ったのは、お披露目試合で敗北を喫した騎士団長レオス・グラディオンであった。一九一センチの巨躯を包む重騎士鎧は、朝日を反射して不気味なほど赤く光っている。彼の背後には、これまでの威風とは違う、静かな緊張の気配が漂っていた。
「……アレン・ヴァルグレイ。次は、負けぬ。……必ず、その『理外』を叩き割ってやる」
その言葉は、武人としての再戦の誓いに聞こえた。だが、アレンはその瞳の奥に宿る、淀んだ魔力の揺らぎを見逃さなかった。それは不当な敗北への怨嗟というよりは、何かもっと深い、救いようのない渇望のようなものだ。彼の瞳の底に沈む影は、単なる敗者の悔しさとは異なる、重く粘着質な何かを孕んでいた。
「……ああ。期待している」
アレンは短く答え、機内へと足を踏み入れた。背後に残されたレオスの静かな、だが執拗な視線。それが不気味な不協和音となって、アレンの背中にまとわりついていた。タラップを一段上るごとに、その視線の重みが背骨の奥にまで沁み込んでいくような感覚があった。
高度一万メートル。蒼穹を往く機内は、アグニスの喧騒が嘘のような静寂に包まれていた。エンジンの静かな振動だけが、規則正しく座席の下から伝わってくる。
リィナとセリスは窓の外を眺め、サツキは、アレンが約束してくれたアダマンタイト製の新調薙刀のデザイン案を思い描き、穏やかな時間を過ごしていた。彼女の指先が、無意識のうちに膝の上で柄の形をなぞるように動いていた。
アレンは貴賓室のシートに深く身を沈め、手元のアーク・リンクのカレンダーを確認した。画面に映し出された日付が、静かに彼の視線を捉える。
(……二一九七年も、終わるか)
二一九六年一月に召喚され、ルミナを吸収し、魔軌士No.0へと昇りつめた、あまりにも密度の高い二年間。三人の誓導者を得て、孤独だった回路は今、三拍子の鼓動となって完璧な循環を刻んでいる。窓の外を流れる雲の輪郭が、その静かな充足を映すかのように穏やかに揺れていた。
だが、ヴァルガン王の残した「六月の首脳会談(WFS)」という言葉が、耳の奥でピストン音のように響き続けていた。その言葉の重みは、蒼穹を渡る静寂の中でも消え去ることなく、アレンの胸の内に静かに沈殿していった。
機窓から見える地平線の彼方。沈みゆく太陽が、大陸の形を黒い影として浮かび上がらせている。それは、更なる激動の二一九八年を予感させる、重く、静かな静寂であった。
── 女神歴二一九七年、十二月下旬の事であった。




