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闘技場の中央。アレンは新調された漆黒の鞘から、一振りの剣を抜いた。それはアダマンタイト製のショートソード《蒼断刃》。刀身は陽光を吸い込み、冷徹なまでの黒い光を放っている。抜き放たれた瞬間、観客席のどよめきがわずかに高まり、それはすぐに固唾を呑む静寂へと変わった。
対峙するのは、アグニス騎士団の若きエース。魔軌士No.30、カイル・ヴァン・ブラッドレイ。彼は前回の屈辱を晴らすべく、その全身から凄まじい闘気を発していた。握りしめた魔導剣の柄に、指の関節が白く浮き上がるほどの力が込められている。
「昨日、引見にも居なかったし、食事会にも居なかったから……」
アレンが無表情に口を開く。
「もう帰ったのかと思ったら、ここに居たんだな」
カイルの顔が怒りで朱に染まる。
「……前回は魔術の一撃で地面に沈められたが、今日は違うッ!」
カイルが魔導剣を構えると、周囲の空気が加熱され、陽炎が立った。剣身から立ち昇る熱波が、闘技場の石畳を揺らめかせている。
「前回の屈辱──今日ここで、晴らしてみせるッ!!」
ゴゴゴゴゴッ……。
カイルの背後から、物理的な圧を伴う闘気が立ち上がる。それはアグニスが誇る「武」の極致への執念だった。
「……始めろ」
審判の声が響く。
「おおおおおっ!!」
カイルが一気に踏み込んだ。炎属性を纏った魔導剣が、紅い軌跡を描いてアレンの首筋へと迫る。音速に近い、騎士団きっての剛速。空気を焼き焦がす熱気が、観客席の最前列にまで届いていた。
しかし、アレンは動かない。剣が届く数ミリメートル手前で、アレンのショートソードが跳ね上がった。
キィィィィィィィィンッ!!
アダマンタイト特有の高音が、闘技場に反響する。アレンはカイルの剣速に、完全に自分の速度を「合わせて」いた。
数合、十数合。火花が散り、鋼のぶつかり合う音が連打となって観客席へ届く。観客の目には、二人の英雄が超高速の剣戟を繰り広げているように見えた。
だが、実際は違った。アレンはカイルの剣を、一歩も引かずに「受け流して」いるだけだ。その挙動には、一滴の汗も、焦りもなかった。彼の視線は、目の前の刃よりもむしろその向こう、カイルの重心の揺らぎだけを冷静に追っているようだった。
「魔術禁止のはずなのに、あんなに景気良く火を吹いていいんですの?」
セリスが呆れたように、掲示されたルールと闘技場を交互に見た。
「アグニスの言い分では、あれは『剣の性能』であって『魔術』ではないそうですよ……」
リィナが、無理のある説明に困り果てたような顔で応じる。
「……速い。いや、待て」
観客席の上層、熟練の騎士が眉をひそめる。
「アレン殿が……合わせているのか? No.30の全力が、まるで届いていないぞ」
玉座のヴァルガン国王が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「No.30も少しは反省して取り組んでいると思ったが、とんだ見込み違いだったようだ。相手に遊ばれていることにも気づかんとはな」
「……おそっ」
サツキが、呆れたように呟く。
「アレン様の剣筋に、迷いが一欠片もない。あれは武の絶望だな」
リィナが淡い青の瞳で、アレンの魔力の揺らぎを読み取る。
「……アレン様、完全に合わせてる。あれは“試合”じゃなくて、相手の出方を観察しているだけですね」
セリスがレイピアの柄を指先で叩きながら、冷ややかに告げた。
「剣速の余裕が違いすぎます。アレン様はまだ、一段もギアを上げていませんわ」
カイルの誓導者、フェリシア・ルーンが、蒼白な顔でその光景を見守っていた。彼女の指先が、無意識のうちに自身の胸元をきつく押さえている。彼女は魔力循環を通じて、カイルの焦燥が限界に達しているのを感じ取っていた。
(ダメ……カイル様。届かない。あの男は……底が見えない……!)
「終わりだ」
アレンの声が、カイルの耳元で冷たく響いた。
アレンが半歩、踏み込む。カイルの剣を軽く弾き上げ、体勢が崩れたその一瞬──。ショートソードが、一閃。
ガキンッ!!
カイルの魔導剣が手の中から弾き飛ばされ、地面に突き刺さった。アレンの刃が、カイルの喉元でピタリと止まっている。石畳に突き立った剣の柄が、微かに震えていた。
「……あ……あ……」
カイルは膝を突き、その場に崩れ落ちた。両手が石畳につき、指先が力なく地面をこすった。
「一太刀も……掠らせることも、できなかったのか……」
圧倒的な実力差に、戦士としての心が音を立てて砕ける。彼の肩が、こらえきれない震えを帯びていた。
観客席は静まり返っていた。
「剣が触れた瞬間に、勝負が決まったぞ……」
「調整不足どころか、次元が違う……」
騎士団長レオスが、拳を握りしめてその場に立ち尽くしていた。
「……あんなスピードすら避けられないとは。カイルの奴め」
その声は、震えていた。
「いや……違う。あれほど鍛えたはずなのに。まさか、魔術抜きでここまで差があるとは……」
彼の眼差しには、これまでの余裕に代わって、じわりと不安の色が滲み始めていた。
アレンはショートソードを静かに鞘へ収めた。刃が鞘に納まる乾いた音だけが、静まり返った闘技場に短く響いた。
「……次、誰だ?」
その平然とした問いかけが、武の国アグニスの自尊心を、根底から切り裂いた。観客席のざわめきは、もはや興奮ではなく、言葉にならない戦慄へと変わりつつあった。誰もが、目の前で起きた出来事の意味を、まだ完全には呑み込めずにいた。石畳の上、崩れ落ちたカイルの傍らに転がる魔導剣だけが、先ほどまでの熱気の残滓を静かに物語っていた。




