24-7
アグナードの夜は、ガルディアのそれとはまるで異なっていた。窓の外に広がるのは、夜闇を赤く染める溶鉱炉の光と、二十四時間休むことなく大地を震わせる電動プレス機の重低音。規則正しく上下するその機械音は、まるで街そのものの心臓が脈打っているかのように、絶え間なく響き続けていた。その喧騒を遮断した王宮の一室で、小規模な晩餐会が催されていた。
「改めて、貴殿の来訪を歓迎しよう。アレン殿、料理は口に合うか?」
円卓の向こう側で、国王ヴァルガン・アグニスが豪快に笑いながらグラスを掲げた。卓上に並ぶのは、アグニス特産の魔力牛を豪快に焼き上げた肉料理と、火薬のような刺激を孕んだ強い酒。湯気とともに立ち昇る香ばしい匂いが、円卓全体を包んでいた。
「……問題ない。よく調律されている」
アレン・ヴァルグレイは、事務的な動作でナイフを運びながら短く応じた。その漆黒の瞳は、国王の傍らで終始沈黙を守る騎士団長レオス・グラディオンの、隠しきれない不遜な視線を冷徹に捉えていた。彼の巨躯を包む重厚な礼装は、微動だにせず、ただ座っているだけで場に重い圧を与えている。
そして、アレンの視界の端には、用意されていたはずの「もう一つの空席」があった。丁寧に整えられた席には、まだ誰も腰を下ろした形跡がない。
(……ふん、滑稽だな)
アレンは内心で、氷のような嫌味を吐き捨てた。
(魔軌士No.30──カイル・ヴァン・ブラッドレイ本人が、この場にもいないとは……。呼び出しておきながら当の本人は逃げ出し、王に泥を被らせて自分はどこで油を売っているのか。アグニスの騎士道とやらは、随分と便利な分業制らしい)
その冷ややかな思考を察したのか、隣に座るリィナが心配そうに、セリスが「想定内ですわ」と言わんばかりの気品ある微笑をアレンへ向けた。二人の視線が一瞬交わり、何か無言の了解を確かめ合うように、それぞれの手元へと戻っていく。
国王ヴァルガンは、国を思う一人の指導者として穏やかに語り合う。
「今後、何かあれば是非相談に乗ってほしい。貴殿の力は大陸の希望だ」
その言葉には、政治的な計算というよりも、老練な武人としての率直な誠意が滲んでいた。アレンは短く頷きながらも、その誠実さの裏で燻る不穏な気配――騎士団長の視線に宿る挑発の熱を、片時も見逃さなかった。
宴も終盤に差し掛かった頃、騎士団長レオスが、岩を削るような低い声で沈黙を破った。
「アレン殿。……聞き及べば、貴殿は魔術のみならず、剣も嗜むとか」
レオスの琥珀色の瞳に、挑発的な熱が灯る。彼は、アレンが帝国の序列上位を退けたという映像を見ていながら、それを「魔術の相性が良かっただけの幸運」だと断じ、魔法を封じられた純粋な武の領域において、この「No.0」がいかほどのものであるかを測ろうとしていた。彼の指先が、テーブルの縁を無意識のうちに軽く叩いている。
「ほう、それは興味深い。アレン殿の実力、是非この老骨にも拝見させてはもらえぬか?」
国王ヴァルガンの無邪気とも言える好奇心。だが、それが騎士団長レオスの計算通りの誘導であることは、この場にいる者全員が理解していた。円卓の空気が、わずかに張り詰めていく。
アレンは、手元に残った赤ワインの最後の一口を飲み干すと、無造作に右腰のショートソードの柄へ指先を触れさせた。柄に残る硬質な感触が、彼の意識をわずかに引き締めた。
「……構わない。では明日にでも」
実は今回の件、国王ヴァルガンは何も知らない。カイルの不始末を本気で申し訳なく思い、親愛の情で招待しただけだ。彼の朗らかな笑顔には、一片の悪意も宿っていない。
すべては、影で冷たい笑みを浮かべる騎士団長レオスの差し金だった。
(魔術なき男が、騎士の国でどれほど無様に散るか……見ものだな)
承諾の言葉と共に、アレンは立ち上がった。レオスの口元には、獲物を追い詰めたと確信する肉食獣のような笑みが浮かんでいたが、サツキ・ハートフィールドは、その「騎士の自惚れ」を憐れむような眼差しで見据えていた。彼女は薙刀を傍らに立てかけたまま、円卓の隅で静かにその一部始終を見守っていた。
深夜。アレンに割り当てられた貴賓室の扉を、一人のメイドがノックした。廊下の魔導灯が、彼女の緊張した横顔をぼんやりと照らし出している。
「アレン様、お休み前の温かいお茶をお持ちいたしました」
彼女は王宮でも選りすぐりの、魔力耐性の高い侍女であった。だが、彼女が銀のトレイを抱えて部屋へと一歩踏み出し、扉を閉めた瞬間――その世界は変質した。
「──ッ、な、に……これ……!?」
メイドの膝が、激しい戦慄と共に石床へ叩きつけられた。アレン・ヴァルグレイは、ただ椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めていただけだ。だが、彼が休息のために「三拍子の鼓動」を深層で同期させているその瞬間、彼が無意識に周囲へ放射している漆黒の魔力圧は、もはや心理的な威圧を超え、大気を物理的に圧縮する質量となって室内を支配していた。
「あ、あ、ああ……っ」
メイドの視界の中で、室内の光がアレンという「深淵」に吸い込まれていくように歪んで見えた。彼女にとって、目の前の青年はもはや人間ではない。立っているだけで肌をピリピリと焼き、肺の奥を握りつぶされるような、抗いようのない天災そのもの。トレイを持つ手の震えが止まらず、カップが微かな音を立てて縁を打った。
アレンは驚くメイドに一瞥もくれず、ただ冷徹な視線を窓外の煤煙へと向けていた。遠く煙突から吐き出される火の粉が、夜闇の中でちらちらと明滅している。
「……そこに置いておけ」
その短い一言が、メイドにとっては死神からの赦免状に等しかった。彼女は震える手で空のトレイを抱え直し、失禁せんばかりの恐怖に顔を青ざめさせながら、脱兎のごとく廊下へと駆け去っていった。扉が閉まる音が、静まり返った室内に妙に大きく響いた。
静寂が戻った室内で、アレンは自身の掌をじっと見つめた。窓の外では、依然として溶鉱炉の光と巨大なプレス機の駆動音が、この国の「武」への執着を体現するかのように響き続けている。
リィナの防御、セリスの増幅、サツキの安定。三つの楔に繋ぎ止められた彼の「零」の力は、明日、この「武の国」が誇る慢心を根底から斬り裂くための胎動を、静かに、そして烈しく刻んでいた。窓硝子に映る自分の輪郭を見つめながら、アレンはしばらくの間、動かずにいた。夜はまだ深く、赤く染まった空の下で、王都アグナードの心音だけが変わらぬ調子で鳴り続けていた。




