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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第24章:武の国の残響

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24-4

「暇だから、『定期清掃マラソン』でもするか」


宮殿別邸の朝。食堂の窓から差し込む柔らかな陽光の中、アレン・ヴァルグレイの突拍子もない提案に、リィナ、セリス、サツキの三人は、それぞれの得物を手に顔を見合わせた。テーブルの上ではまだ湯気を立てる紅茶が冷めかけている。舞台に選ばれたのは、ガルディア公国が誇る巨大迷宮《深古水環宮しんこすいかんきゅう》。今回の目的は、第二十一階層から第三十階層までの連続踏破を通じた、四人の連携と剣技の練錬である。


「二十一階層から二十五階層までは、他のパーティも多いわね」


セリスがアーク・リンクでスケジュールを確認する。青白い光が画面に浮かび、彼女の青色の瞳に反射して揺れた。この階層は上級魔軌士たちの主戦場であり、魔石発電所の燃料供給源でもある。アレンたちの過剰な戦闘で他者の邪魔にならないよう、魔軌士局との事前調整が済まされていた。


迷宮の入り口、湿った石造りの通路に足を踏み入れる。冷えた空気が肺の奥まで染み渡り、遠くで水滴の落ちる微かな音が反響していた。一行が第一階層の安全地帯セーフティ・ゾーンを抜け、魔獣の気配が漂い始める「境界」に差し掛かった時、アレンが不意に足を止めた。


「サツキ、手を出せ」


「あ、はい……」


サツキ・ハートフィールドがおずおずと左手を差し出す。その薬指には、先日購入したばかりの、まだ魔術が刻まれていない白金の指輪が鈍く光っていた。周囲を照らす簡易魔導灯の光が、その表面に淡い輪郭を描いている。


アレンはサツキの手を無造作に取ると、その指輪に自身の右手の指先を重ねた。


「《魔力直接操作アーケイン・マニピュレーション》」


アレンの指先から、目に見えぬ無属性の魔力触手が白金の環へと浸透していく。それは現代の魔術刻印のようなまどろっこしい工程を一切省いた、理外の現象。サツキの視界の中で、指輪の表面に極細の幾何学模様が浮かび上がり、一瞬だけ漆黒の燐光を放って消えた。手の甲に微かな熱が走り、それはすぐに、指の付け根から染み込むような穏やかな温もりへと変わっていった。


「……終わった。これで俺やリィナ、セリスの指輪と同期した」


「ありがとうございます……。あの、魔力を通しての実験はしなくてよろしいのですか?」


サツキの問いに、アレンは既に前方を向きながら短く応じた。


「不要だ。俺の術式にミスはない。……それに、今ここで魔力を流せば、宮殿で執務中のエリシア陛下の指輪も光ってしまうからな。突然光れば陛下も驚くだろう」


事務的で合理的な判断。だがサツキは、アレンが公女王エリシアの「日常」を乱さないように配慮したことに、彼の内側にある静かな誠実さを感じていた。石造りの通路に反響する自分たちの足音が、その静けさをいっそう際立たせているように思えた。


そして、アレンが指を鳴らした。《空間転移スペース・シフト》。視界が漆黒の魔力に塗りつぶされたかと思うと、次の瞬間には二十一階層の冷涼な空気が一行を包み込んでいた。石壁を伝う水音、遠くの魔獣の咆哮、湿った土の匂い――それらが一瞬にして周囲の景色ごと入れ替わっている。


「なっ……!? なな、何が起きたのですか!?」


サツキは愛槍《朧月おぼろづき》をひったくるように構え、鋭い視線を周囲に走らせた。心臓が早鐘のように打ち、握った柄に汗が滲む。一歩も歩かぬまま二十もの階層を瞬時に飛び越えるという、物理法則をあざ笑うかのような理外の現象。その衝撃にサツキの心臓は激しく波打ち、目は零れ落ちんばかりに見開かれている。


しかし、隣で「いつものこと」と言わんばかりに平然と歩き出すリィナたちの背中を見た瞬間、彼女は深く吐息をつき、ゆっくりと構えを解いた。


(……ああ、そうです。アレン様ですものね。常識を壊し続けてきたあの方にとっては、空間を折り畳むことなど、階段を一段飛ばすのと大差ないのでしょう)


あまりの超常現象への戦慄は、やがて「あの方なら仕方ない」という、どこか清々しいまでの諦念を伴う納得へと上書きされていった。薙刀を握る手から、徐々に力が抜けていく。


アレンが今回、剣技に固執するのには理由があった。


(……ノルディアでの戦闘。あの『魔力攪乱粉末』は教訓になった)


魔術式を無効化する粉末が舞えば、アレンの理外の魔術すら精度を欠く。あの時、自分が「剣も使える」と完全に自覚していれば、サツキ以上に戦場を支配できていたはずだ。アレン自身が、己の「補助」であるはずの剣の重みを、過小評価していた。歩を進めるたびに、その反省が静かに彼の胸中で燻っていた。


アレンが右腰のアドマンタイト製ショートソード《蒼断刃そうだんじん》を引き抜く。それは大型ナイフに近い無機質な刃だが、アレンの手の中では恐るべき凶器へと変貌した。刃が石壁の光を鈍く反射し、通路の湿った空気にわずかな緊張が走る。


アレンの剣技が異常なまでに極まっているのには、隠された理由がある。第一召喚時のアレンには、魔力が一切なかったのだ。“剣しか使えない世界”で生き残るため、彼は無意識に、そして絶望的に剣を振り続けた。その才能は地獄の練錬によって開花し、最終的には世界トップ……この世界の言葉にはないが、まさに「剣神」と呼ぶべき領域に達していた。


――シュパッ!!


二十一階層の魔獣、水殻の巨兵が反応すらできずに一刀両断される。断面から漏れ出した魔力の残滓が、青白い燐光となって石床に散った。アレンは魔術を一切使わず、純粋な「武」の練度だけで迷宮を蹂躙していく。その動きには、迷いも無駄も一切なかった。


「……アレン様の剣、以前よりさらに鋭くなって……」


リィナが感嘆の声を漏らす。淡い青色の瞳が、アレンの剣筋を追いながら微かに揺れていた。


十日後、二回目の『定期清掃マラソン』を終える頃には、アレンの剣技はもはや神速の域を越え、残像すら置き去りにしていた。石壁に反響する水音と、彼の刃が空気を切り裂く音だけが、静かな迷宮の中に規則正しく刻まれ続けていた。


そして、アレンの目的はもう一つあった。


「サツキ。震えているぞ」


運命の第二十六階層。かつてサツキが「届かない場所」として絶望し、リィナの結界なしでは一歩も歩けなかった死の境界線。石段を一歩下るごとに、空気の密度がわずかに変わっていくのを、サツキは肌で感じ取っていた。


「……っ」


サツキは無意識に身構え、薙刀《朧月おぼろづき》の柄を強く握りしめた。くるはずだ。脳髄を直接掻き乱すような、あの悍ましい魔力の咆哮が。呼吸が浅くなり、額にじわりと汗が滲む。


だが。


「…………え?」


サツキは呆然と立ち尽くした。リィナはまだ、結界を展開していない。にもかかわらず、かつてあんなにも自分を苛んだ「不協和音」が、どこにも聞こえないのだ。


いや、正確にはノイズは存在していた。迷宮の深層が放つ暴力的な魔力の波は、確かにサツキの肌を叩いている。だが、それ以上に強固で、絶対的な「静寂」がサツキの内側から溢れ出していた。まるで嵐の目の中に立っているかのような、不思議な穏やかさだった。


アレン(主)、リィナ(一)、セリス(二)、そして自分(三)。四人の魂が共鳴し、アレンを中心に刻まれる「三拍子の鼓動」。その完璧な調律が、外界のあらゆる雑音を打ち消すアンカーとなり、サツキの感覚を保護していたのだ。


かつては「底知れぬ深淵」でしかなかった深層の空気が、今、アレンと繋がった彼女には、不思議なほど穏やかで静かな草原のように感じられていた。石壁の向こうから響く水音さえ、以前とは違う優しい響きを帯びているようだった。


「サツキさん……。もう、大丈夫なようですね」


銀髪を揺らしながら、リィナがサツキの隣に並んだ。彼女の淡い青色の瞳には、優しさと、微かな申し訳なさが滲んでいた。


「やはり、アレン様の誓導者せいどうしゃとなった今、リィナの《空間隔絶結界スペース・セパレーション》は必要ありませんね」


セリスがレイピアの柄を叩きながら尋ねる。アレンは「ああ」と短く頷いた。彼の視線は、深層特有の淡い闇に向けられたまま、変わらぬ平静さを保っていた。


サツキの胸の奥がカッと熱くなった。自分だけが届かなかった場所。自分だけが余所者だった聖域。それが今、アレンの鼓動を共有することで、これほどまでに安らかな日常に変わるのか。指先に嵌まった指輪が、その事実を静かに証明しているようだった。


「……はい、リィナさん。……届かなかった場所が、こんなに静かなんですね」


サツキは微笑み、薙刀を中段に構え直した。疎外感という名の呪いは、迷宮の静寂の中に溶けて消えていた。石段を下るたびに響いていた足音さえ、今は軽やかに聞こえた。


定期清掃マラソン』の中盤、二十八階層の巨大な広間に差し掛かった時、アレンが足を止めた。広間の高い天井から、微かな水滴の音が絶え間なく落ち続けている。


「少し休憩する。……サツキ、一つ頼みがある」


「はい。何でしょうか、アレン様」


アレンはショートソードを構え直し、サツキを漆黒の瞳で見据えた。


「組手をしろ。……魔術による身体強化も、魔力循環による補助も一切なしだ。純粋な『肉体の動き』だけで俺の相手をしろ」


サツキは目を見開いた。理外の魔術師であり、剣技でも自分を圧倒したアレンが、自分に「純粋な組手」を申し込むなど。心臓が一拍、大きく跳ねた。


「魔術に頼らない、剥き出しの物理的な間合いが重要になる時があるかも知れない。……サツキ、俺はしばらく剣一本で戦うつもりだ。お前の『魔術を介さない物理の間合い』を、俺の体に叩き込んでおけ」


アレンの言葉には、サツキを「ただの護衛」としてではなく、武の領域における「師」のように仰ぐ響きがあった。石造りの広間に、静かな緊張が満ちていく。


「……承知いたしました、アレン様。……遠慮は、いたしませんよ!」


サツキは《朧月おぼろづき》を構えた。彼女の瞳に、かつてないほどの充実感と熱が灯る。呼吸を整え、両足を石床に確かに据える。


――キンッ!!


術の燐光一つない、暗い石の広間に、鋼と鋼がぶつかり合う乾いた物理音が響き渡った。アレンは長身を低く沈め、サツキが放つ「一ミリの狂いも許されない物理の間合い」に必死に食らいついていく。その額には、これまで見せなかった集中の汗がうっすらと滲んでいた。


リィナとセリスが、固唾を呑んでその光景を見守っていた。二人の視線は、鋼のぶつかり合う音のたびに小さく揺れていた。


サツキが家伝の薙刀で描く鋭い軌道。それは魔術理論では説明できない、長年の鍛錬だけが到達できる武の極致。アレンは自身の天賦の才に甘んじることなく、サツキという「武の防波堤」から、自分に欠けている最後のピースを吸収しようとしていた。


(……ああ。私は今、あの方の役に立てている)


サツキは、薙刀を通じてアレンの鼓動がダイレクトに伝わってくるのを感じていた。魔力ではない。骨と肉、そして意志の衝突。自分が命を懸けて磨き上げてきた「武」が、最強の魔軌士の一部となり、彼を完成させていく。その確信が、サツキにこれまでのどんな報酬よりも甘美な、深い充足感を与えていた。


石畳を蹴る足音、刃が空を切る音、互いの呼吸の音――それらが幾度も交錯し、広間全体を満たしていく。柄を握るサツキの掌には、幾度目かの衝撃で微かな痺れが走っていたが、彼女はそれを気にする素振りすら見せなかった。


アレンの剣技での無双――その説得力は、この迷宮の底で、一人の女性から受け継いだ「武の真実」によって、より強固なものへと鍛え上げられていった。


三つのくさびが、一つの円環となる。最強の「No.0」は、魔術と武、その両翼を完全に手に入れ、さらなる深淵へと歩みを進めていた。石壁の向こうから響く水音だけが、二人の激しい組手の余韻を、静かに、けれど確かに刻み続けていた。


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