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翌日。アレンとリィナは、四大迷宮『蒼風峡谷』二七階層の最奥へと足を進めていた。
周囲を包むのは、岩肌にへばりついた青白い苔が放つ、不気味で静謐な燐光だ。迷宮特有の湿り気を帯びた重い風が、回廊の曲がり角から断続的に吹き抜けてくる。
「二七階層も、もうすぐ半分といったところでしょうか。……なんだか、今日は静かですね」
銀髪を揺らすリィナが、アレンの逞しい腕の近くまで歩み寄り、小声で呟いた。魔力循環誓約の影響か、彼女の横顔には以前のような過剰な緊張はなく、どこか安らかな信頼の色が宿っている。
二人の歩みは、まるで整備された庭園を散策するかのように緩やかだった。アレンの「理外の視界」が、物陰に潜む魔獣の殺気を事前に捉え、その都度、音もなく排除し続けていたからだ。
だが、その「静寂」は唐突に破られた。
不意に、二人が踏み出した一尺四方の石床が、心臓の鼓動を打つように淡く発光した。
「しまっ──」
「アレン様!」
アレンがリィナの肩を抱き寄せた刹那、視界の色彩が一瞬にして反転した。
内臓を直接かき回されるような、耐え難い浮遊感。上下左右の概念が消失し、自身の存在が薄い膜を引き延ばされるように空間へと溶けていく不快な錯覚がアレンを襲った。
(……っ、この感覚……!)
全感覚が虚空へと投げ出される奔流の中で、アレンは意識を極限まで研ぎ澄ませた。
全身の細胞を駆け抜ける、魔力の独特な「揺らぎ」と、位相が数センチメートルずつずれていくような物理的な断絶。
それは、アレンが昨夜、二六階層の階段を何度も往復してまで探り続けていた「正体不明の違和感」そのものだった。
(……間違いない。覚えているぞ、この波形を。階段の境界線を跨ぐ瞬間に感じた、あの空間の継ぎ目だ)
アレンは転移の渦中で、世界の理に触れる一つの「確信」を掴み取った。
エルディアの迷宮において、各階層は物理的に積み重なっているわけではない。
「階段」とは、次階層へ歩いて降りるための通路ではなく、独立した空間同士を繋ぎ止めるための『固定転移装置』なのだ。
フッ、と唐突に重力が戻った。
気づけば、二人は先ほどまでの苔むした回廊ではなく、冷たく乾いた風が吹き抜ける見知らぬ大空洞の真ん中に立っていた。
「……アレン様、ご無事……ですか……?」
「ああ。リィナ、手を離さなくて正解だったな」
アレンは傍らで肩で息をするリィナを支えながら、周囲を警戒した。
リィナが震える手で「アーク・リンク」を確認する。だが、空中に展開されたホログラムの地図は、周囲十メートルを円状に映し出すだけで、進行方向を示す光点も階層の表示も消失していた。
「地図が……更新されません。迷宮内の座標リンクが途切れています。……もしかして、別の迷宮へ飛ばされたのでは……」
不安げなリィナの言葉も無理はなかった。通信が遮断される迷宮において、現在地を見失うことは「死」に直結する。
だが、アレンは冷静だった。彼は空間に残った魔力の残滓を指先でなぞり、転移によって生じた「座標のズレ」を脳内で計算し始めた。
数時間の慎重な彷徨の後、二人はようやく見覚えのある様式の石造りの扉と、その先に続く『階段』を発見した。
「リィナ。ここで扉を背にして休んでいろ。上の様子を見てくる」
「えっ、アレン様!? お一人では危険です……っ!」
「大丈夫だ。すぐに戻る」
アレンはリィナの制止を静かに振り切り、重厚な扉を蹴破るようにして階段を駆け上がった。
その先に待ち構えていたのは、二七階層まででは見たこともない、全身が漆黒の甲殻で覆われた異形の巨獣だった。
巨獣は侵入者の気配を察知し、大気を震わせる咆哮を上げようと大きく顎を開いた。
だが、アレンの内に迷いは微塵もなかった。彼は階段の最上段に足をかけたまま、ただ一点──魔力が最も濃く渦巻く巨獣の眉間へと、大きな掌をかざした。
「──《光束魔術》」
刹那。
詠唱もなく、術式の構築さえ必要としない純粋な光の槍が、物理法則を置き去りにする速度で空間を貫いた。
巨獣は反撃の機会すら与えられず、その頭部を光の粒子へと変えられ、崩れ落ちた。後には、かつてないほど高密度な魔力を放つ蒼い魔石だけが、虚しく石床を転がった。
「……初見の相手だったが、手応えはなかったな」
アレンは静かに息を吐き、足元の魔石を拾い上げた。
その指先には、転移トラップによって強制的に「わからされた」空間の理の感触が、熱い余韻となって刻み込まれていた。




