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蒼風峡谷、二十六階層。
重厚な石扉が背後で閉ざされた瞬間、大気に満ちる魔力の「質」が明確に変貌した。
これまでの階層にあった人工的な照明魔術の残滓は消え、代わりに岩肌から滲み出す淡い燐光と、深層特有の湿り気を帯びた重苦しい沈黙が二人を包み込む。
(……ここから先が、人類の足跡が途絶えた『未踏域』か)
アレンは、闇の奥を見据えた。
隣では、リィナが緊張した面持ちでアーク・リンクの画面を操作している。
「……アレン様。これより『自動マッピングアプリ』を起動しますね」
リィナが端末のスイッチを入れると、真っ白な画面の中央に、現在地を示す小さな光点が心細げに灯った。
彼女は自嘲気味に、けれど少しだけ誇らしげに微笑む。
「深層の地図データは、魔軌士局で買うと信じられないほど高価なんです。私が以前、万年金欠だった理由の半分くらいは、このデータ代のせいだったりします」
「命の値段だと思えば安いんだろうが……。ここからは俺が行く方向を記録しておいてくれ」
アレンは迷いのない足取りで、吸い込まれるように闇の中へ足を踏み出した。
リィナが慌てて後を追う。
アレンには、もともと地図など必要なかった。
彼の「理外の視界」は、迷路のように入り組んだ通路の先、空間に漂う微かな魔力の「澱み」を正確に捉えていた。
どこに敵が潜み、どこに最短の経路があるのか。それは彼にとって、水が高い所から低い所へ流れるのを見るよりも自明な事理だった。
アレンが進むたび、不可視の壁がその理を譲るかのように道が開けていく。
迷宮そのものが、この異質な侵入者を恐れ、道を開けているかのような錯覚。
二人は一度も立ち止まることなく、二十六階層の最深部──守護獣の部屋へと辿り着いた。
ギギギ……と重苦しい音を立てて開いた石扉の先。
そこに鎮座していたのは、数メートルに及ぶ巨大な岩石の塊が意志を持ったような、異形の守護獣だった。
巨獣が立ち上がるたびに震動が走り、天井から塵が舞い落ちる。圧倒的な質量の暴力が、侵入者を圧殺せんと咆哮を上げようとした。
だが、アレンの思考プロセスに「迷い」は存在しない。
アレンは巨獣の胸部、岩の隙間に明滅する魔力核を、瞬き一つの間に特定した。
彼は掌を無造作に突き出すと、極小の魔力を指先に集束させる。
「──《光束魔術》」
刹那。
放たれた一筋の白銀の閃光が、音速を置き去りにして空間を貫いた。
咆哮すら上げる暇を与えず、二十六階層の主は核を正確に射抜かれ、その巨躯を内側から崩壊させていく。
光の塵へと還り、静寂が戻った部屋に、カランと虚しい音を立てて巨大な魔石だけが転がった。
「……終わったぞ、リィナ。地図の更新はどうだ?」
「あ……はい。……えっ!? アレン様、これ……っ!」
リィナが差し出した端末の画面を見て、アレンはふっと口角を上げた。
そこには、迷宮の複雑な構造を一切無視して、入り口からボス部屋までを最短距離で繋ぐ──『幅二十メートルの一直線の道』だけが、暴力的なまでの白さで記録されていた。
アレンが邪魔な壁を《光刃》で切り裂き、魔獣を薙ぎ払い、最短距離を選び続けた結果だった。
「アレン様。これ、もはや迷宮探索の記録になりません……。後からこの地図を見た人は、自分たちの頭がおかしくなったと思うはずです」
リィナは呆れたような、けれど憧憬に満ちた溜息を吐きながら、一直線の道を振り返った。
「道があるんだからいいだろ。……行こう。今日は二十七階層の安全地帯で休む」
「……はい、アレン様。どこまでも、お供します!」
リィナは端末を握りしめ、主の背中を追って深層の闇へと再び踏み出した。
迷宮という閉鎖空間の理が、一人の男の歩みによって、根底から書き換えられようとしていた。




