4-2
四大迷宮『蒼風峡谷』二六階層、安全地帯。
人工的な光が一切届かない深層の闇を、リィナが設置した魔導ランタンの淡い燐光が、頼りなげに照らしていた。
岩肌を撫でる風は地上よりも重く、湿り気を帯びて冷たい。時折、深層特有の濃密な魔力が大気に混じり、パチパチと静電気のような微音を立てていた。
アレンは、二五階層へと続く階段の淵に立ち、その深淵の先にある「理」を無言で見つめていた。
「リィナ。先にテントで寝ていていいぞ」
「えっ……でも、アレン様はどうされるんですか?」
「少し、実験をしておきたいんだ。……気にするな」
アレンは感情の起伏を押し殺した淡々とした声で告げ、階段の方へと歩み出した。
リィナは心配そうに彼の大きな背を見送ったが、やがてアレンの言葉に従い、空間収納から取り出したテントの中へと潜り込んだ。
一時間後。
リィナは寝付けず、そっとテントの隙間から外の様子を窺った。
そこには、現代魔術の常識では測り得ない、奇妙な光景が広がっていた。
アレンが、二六階層と二五階層を繋ぐ階段の境界付近を、何度も往復していたのだ。
一歩進んでは立ち止まり、空中に手をかざしては魔力の流れを確かめる。そのまま数段戻り、また同じ場所で足を止める。
アレンは無言で、何かに取り憑かれたようにその地味で単調な動作を繰り返していた。
(何を……されているんでしょうか?)
リィナが知る「魔術の修行」とは、あまりにかけ離れている。
通常、魔術の研鑽とは瞑想によって魔力循環を安定させるか、魔術式の構築精度を高める訓練を指す。
だが、アレンの行動には規則性が見えず、リィナにはその意図が全く理解できなかった。
夜が更け、アレンがようやくテントに戻ってきた。
彼は泥のように眠りについていたリィナの横で、身を横たえると同時に深い眠りに落ちた。
リィナはふと、自身の固有能力である「思考読解」をアレンに向けてみた。
彼が何を目指し、この深層でどのような壁にぶつかっているのかを知りたかったからだ。
しかし、彼女の脳内に流れ込んできたのは、意味をなさない情報の奔流だった。
『座標軸……三次元展開の固定……魔力流の歪み、マイナス三……。いや、位相をずらす……』
それは言葉というより、高度な数式や、空間を記述する幾何学的な「現象」そのものの羅列に近い。
現代魔術の理論で教育を受けてきたリィナにとって、その思考の断片すら理解の範疇を超えていた。
ただ、アレンが世界の理そのものを書き換えようとするほどの、膨大な計算を脳内で行っていることだけが、魂の共鳴を通じて伝わってきた。
翌朝。
差し込む魔力の光で目を覚ましたアレンは、少しだけ顔をしかめて言った。
「……実験は、まだ上手くいっていない」
「転移、ですか?」
「ああ。空間の『固定』が甘い。このまま飛ぶと、壁の中に埋まりそうだ」
アレンは朝食のパンを齧りながら、二五階層の方を振り返った。
彼の《魔力直接操作》は、昨夜の往復実験である「予感」を抱いていた。
迷宮の各階層を移動する際、階段の特定の段を跨ぐ瞬間にだけ、魔力の波形が不自然に揺らぐのだ。
(……もしかすると、この階段はただの通路じゃないのかもしれないな。物理的な接続ではなく、もっと別の……転移装置のような何かなんじゃないか?)
それはまだ確信には至らない、漠然とした想像に過ぎなかった。
だがアレンはその「揺らぎ」を自力で再現し、術式というフィルターを介さずに、自身の存在を任意の座標へと直接固定する法則を見出そうとしていた。
「ここでボスの再生を三日も待つのは、さすがに退屈だな。……リィナ、先に進もう」
リィナは驚いてスープを飲む手を止めた。
普通の探索者なら、確実に数億エルの利益が得られる守護獣の復活を待つのが定石だ。
だが、この男にとって金は二の次であり、今は迷宮の底に眠る「理」への興味が勝っていた。
「わかりました。……行きましょう、アレン様。どこまでも」
リィナは呆れたような、けれどどこか嬉しそうな溜息をついた。
二人はテントを素早く畳み、人類未踏の領域──二六階層のさらなる深淵へと足を踏み出した。




