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女神歴二一九七年、十二月一日。ガルディア公国、宮殿別邸の応接間には、昼下がりの柔らかな光が窓硝子を透かして差し込んでいた。庭園の木々はすでに晩秋の色を深く纏い、風が吹くたびに乾いた葉音が微かに室内へと届く。暖房の効いた空気の中に、淹れたばかりの紅茶の香りが静かに漂っていた。
テーブルを挟んで、アレン・ヴァルグレイは手元の書類を一枚、サツキ・ハートフィールドの前へと滑らせた。そこには無機質な数字が整然と並んでいる。
「サツキ。遅くなったが、お前の待遇についての話だ」
サツキは茶系のポニーテールを微かに揺らし、背筋を伸ばした。膝の上に置いた両手が、無意識のうちに軽く握られる。
「……待遇、ですか?」
「ああ。魔力循環誓約を結んだ以上、お前は正式な俺の『誓導者』だ。年俸は五千億エル。迷宮で得た魔石の五パーセントを成功報酬として支払う。リィナやセリスと、全く同じ条件だ」
アレンの声には、いつも通りの淡々とした事務的な響きしかなかった。だが、その言葉がサツキの思考を一瞬にして凍りつかせた。
……五千億エル。
サツキは自身の記憶を必死に辿った。あの雪原の夜、アレンに「地獄を半分預ける」と告げたあの瞬間、自分の頭にあったものは何だったか。金銭でも、契約内容でもない。ただ「この人の力になりたい」という、あまりにも単純な、けれど揺るぎない一心だけだった。
(……私は、そんなことも聞かずに)
サツキの頬に、みるみるうちに朱が差していく。
「サツキさん、どうかしましたか?」
隣に座るリィナ・フェルウェンが、心配そうにその横顔を覗き込んだ。淡い青色の瞳には、控えめながらも確かな気遣いが滲んでいる。
「……いえ、その。何も決めないまま誓約をしてしまった自分が、情けなくて」
絞り出すようなサツキの声に、向かいのセリス・ヴァレンティアが可笑しそうに口角を上げた。青色の瞳が、悪戯めいた光を宿す。
「仕方がありませんわ。魔力循環誓約は、婚姻と同格の重みを持ちますもの。あの状況で人生を預けたのです。今更恥ずかしがる必要はありませんわ」
「こん、いん……」
追い打ちをかけるようなセリスの言葉に、サツキは今更ながら、自分がしでかしたことの重大さを噛み締めた。誓約中は子を成せないこと。魂の深部に魔力署名が刻まれ、一生涯の伴侶として運命を共にすること。それらは知識としては理解していたはずだった。だが、こうして改めて言葉にされると、胸の奥が焼けるように熱を帯びる。
「っ……!」
サツキの顔は、耳の先まで真っ赤に染まった。カップを持つ指先が、かすかに震えている。
「それと、もう一つだ」
アレンはサツキの動揺には一切構わず、傍らの壁に立てかけられた薙刀――家伝の《朧月》へと視線を向けた。刃の腹に落ちる窓辺の光が、その古い柄に静かな陰影を刻んでいる。
「その家伝の薙刀だが。これからの深層探索には耐えられない」
その一言が、武人であるサツキの胸に鋭く突き刺さった。《朧月》は名品だ。だが、アレンから絶えず流れ込む異常な魔力供給に耐える設計ではない。全力を出せば、いずれ刀身に亀裂が入り、砕ける。
「新しい薙刀を打たせる。サツキ、お前専用の得物だ」
「ですが、アレン様。これは我が家の……」
「分かっている。だからこそ、だ」
アレンは真っ直ぐにサツキを見据えた。感情の起伏の薄いその瞳の奥に、確かな配慮の色が滲んでいるのを、サツキは見逃さなかった。
「家伝は“精神の支柱”だ。深層で折れたら、お前は一生後悔する。武器は、持ち主の心も守るものだ。だから実戦用は別に作る。……いいな?」
「…………。はい。ありがとうございます」
サツキは深く頭を下げた。石床に触れそうなほど深いその礼に、アレンの冷徹なまでの優しさへの感謝が滲んでいた。
アレンが侍従を呼び、手配していた鍛冶師ブロム・ハイロックを応接間へと招き入れた。重厚な体躯を耐熱革の装束に包んだ鍛冶師は、仕様を聞くなり眉を大きく跳ね上げた。
「……アダマンタイト製の薙刀……? そんな注文、十年ぶりですよ」
伝説的な硬度を誇る希少金属、アダマンタイト。それを贅沢に使用し、サツキの要望――重心の位置、柄のしなり、魔力伝導率の微調整――を全て盛り込む。応接間の空気が、職人としての静かな熱を帯びていった。
「完成まで二か月。最高の物を用意しましょう」
「……楽しみに待っている」
鍛冶師が一礼して去った後、部屋には再び穏やかな静寂が戻った。サツキは静かに自分の拳を握りしめる。新しい「力」が手に入る高揚感。そして、自分を対等な戦士として認めてくれるアレンへの、言葉にできない想い。窓の外では、晩秋の陽光が庭園の木々の影を、ゆっくりと室内へと伸ばし始めていた。
「二か月、ですか」
リィナとセリスが微笑みながら見守る中、サツキの瞳には武人としての誇りと、一人の女性としての静かな輝きが、確かに宿っていた。




