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ノルディア北部の山脈を包み込んでいた藍色の闇が、地平線の端からゆっくりと、しかし抗いようのない力強さで押し上げられていく。極寒の夜を耐え抜いた雪原は、差し込む朝日の黄金色を反射し、目を焼くような純白の輝きへとその色を変えていた。夜通し吹き荒れていた風は、夜明けと共にわずかにその勢いを弱め、代わりに凍てつく静寂が辺りを支配し始めていた。
空気は凍りつき、吐き出す息は一瞬で白い結晶となって散る。その極限の静寂の中で、アレン・ヴァルグレイは、右手を魔石発電所の中心部へと掲げたまま、彫像のごとく静止していた。周囲の雪面には、昨夜からの戦闘の痕跡が生々しく残り、踏み荒らされた足跡と、焦げた薬莢の破片が朝日を鈍く反射している。
視界の先、発電炉の心臓部に陣取った強硬派の首謀者が、狂気に満ちた笑みを浮かべて起爆装置を掲げている。
「来るな……! 一歩でも動けば、この国の未来ごと吹き飛ばしてやる!」
男の声は震え、興奮と恐怖がない交ぜになった甲高い響きを帯びていた。起爆装置を握る指先は白く、今にも力尽きて震え出しそうだった。
「アレン様、なぜ……!? 奴を消さないのですか!」
背後からセリスの焦燥に駆られた声が響く。だが、アレンは答えなかった。いや、答えられなかった。彼の漆黒の瞳は、これまでにないほど鋭く、そして苦渋に満ちて揺れていた。
(……ダメだ。今の俺では、精密な制御ができない)
アレンの内側で渦巻く魔力は、数日前の帝都での「掃除」を経て、さらにその質量を増していた。リィナという「盾」が彼を繋ぎ止め、セリスという「剣」が彼の出力を高めている。だが、その二つの巨大な翼をバランスよく制御するための「重石」が足りない。掲げた右手の指先が、微かに震えているのを、アレン自身も痛感していた。
ここで光を放てば、魔力の奔流は首謀者だけでなく、背後にある魔導炉の精密な術式回路までをも分子レベルで粉砕してしまう。守るための力が、守るべきものを滅ぼす──幾度となく彼を苛んできたその絶対的な矛盾が、アレンの指先を、かつてないほど重く縛り付けていた。
その絶望的な沈黙を、凛とした鋼の響きが切り裂いた。
「──お任せください。アレン様」
サツキ・ハートフィールドのしなやかな肢体が、アレンのすぐ隣へと踏み込んできた。彼女は愛槍《朧月》を雪原に突き立てると、アレンが掲げている右手を、自身の両手で力強く、迷いなく握りしめた。突き立てられた薙刀の柄が、雪面にわずかに沈み込み、静かに揺れて止まった。
「サツキ……お前」
「あの夜、廊下で言った言葉を……地獄を半分預けるという約束を、今、ここで果たさせてください」
サツキの深い茶色の瞳が、アレンの黒い瞳を真っ直ぐに射抜く。その瞳には、かつて彼が「お前には無理だ」と突き放した際の悲しみも、疎外感も、もはや微塵も残っていなかった。朝日を受けたその瞳は、澄み切った琥珀のような輝きを湛えていた。
アレンは、自身の掌に伝わってくる感触に息を呑んだ。サツキの手は、厳しい修行によって作られたタコがあり、骨格を感じさせるほどに硬い。だが、そこから流れ込んでくるのは、アレンやセリスのような禍々しい魔力圧ではなく、吹雪の夜さえも溶かすような、眩いほどに清浄で、鋼のように安定した生命エネルギーであった。
それは、アレンという「天災」を中心で繋ぎ止めるために欠けていた、最後の一欠片。
「サツキ……。本当に、俺の地獄に付き合うつもりか」
「はい。……あなた以外は、もう考えられませんから」
サツキが優しく、けれど不退転の決意を込めて微笑んだ。その瞬間、アレンの胸の奥にあった強固な防壁が、音を立てて崩れ去るのを感じた。一人の武人が、その魂の全てを賭けて差し出してきた請願。それを拒絶することは、もはやアレンにとって自身の存在を否定することと同義であった。
「…………。お前の、その“戦士の安定性”を貸してくれ。俺の暴走を止める、楔になってほしい」
「はい、アレン様。……喜んで、私のすべてを捧げます」
二人の視線が重なり、魂の波長が極寒の空気の中で共鳴した。リィナとセリスは、少し離れた場所で息を詰め、この瞬間の重みを噛み締めるように見守っていた。リィナの手は無意識のうちに胸の前で固く組まれ、セリスの瞳には抑えきれない緊張と、それ以上の期待が滲んでいた。
サツキは自身の深層回路を全開に開放し、アレンの漆黒の魔力に自らの波長を強引に同期させていく。彼女は、かつて学院で学んだ、魂を繋ぐための「最後の一節」を、その凛とした言霊に乗せた。
「魔力循環誓約 ── 執行」
サツキの、一切の迷いを排した鋭い声が、極寒の空気を震わせた。
その言葉が発せられた刹那、世界からすべての音が消失した。
地平線から溢れ出した朝日の光が、二人の足元で漆黒の魔力と溶け合い、雪原に巨大な幾何学模様を浮かび上がらせる。金色と黒の光が螺旋を描きながら絡み合い、周囲の雪面を淡く照らし出した。リィナとセリスが固唾を呑んで見守る中、アレンの心臓から放たれた魔力の糸が、サツキの指先を介して彼女の深層回路へと接続された。
「──っ!!」
サツキの身体が、理外の質量に耐えるように大きく仰け反った。だが、彼女はアレンの手を離さなかった。それどころか、押し寄せる破壊的な魔力の奔流を、自身の強靭な精神と肉体で真っ向から受け止め、それを穏やかな円環へと無理やり引き戻していく。彼女の額から流れた汗の粒が、朝日を受けてきらりと光り、雪面へと静かに落ちていった。
アレンの感覚が、爆発的に拡張された。これまで不透明な霧のように彼を覆っていた魔力のノイズが、サツキという「物理的な重石」を得たことで、嘘のように凪いでいく。
(……安定している。鼓動が、三拍子になったようだ)
リィナが防御(結界)を、セリスが攻撃(増幅)を。そして今、サツキが安定を担う。三つの楔が、アレン・ヴァルグレイという不安定な太陽を囲む、完璧な公転軌道を形成した。
アレンの視界の中で、数百度に及ぶ熱源、大気中の攪乱粉末、そして首謀者の心臓の鼓動までが、完璧な座標として描かれた。世界の全てが、これまでにない解像度で彼の前に開けていた。
「終わりだ」
アレンが右手を一閃させた。
《光刃魔術》
それは、漆黒の夜を切り裂き、黎明の空を焼き切る一筋の、完全な閃光であった。遮るもののない澄み渡った空気の中を、極薄かつ超高密度の光の刃が、最短距離で駆け抜ける。
発電所の巨大な冷却塔、繊細な魔石送電線、そして再建に励む民の希望──その全てに、煤一つ、傷一つ付けることはない。光の刃は、起爆装置を握りしめていた首謀者の腕を、そしてその存在という概念そのものを、正確無比に分子レベルで消去した。
音も、悲鳴もない。ただ、光が通り過ぎた後の空間に、微かな魔力の燐光だけが雪のように舞い落ちた。粒子のような光が、朝の澄んだ空気の中でゆっくりと消えていく様は、まるで一つの終焉を静かに悼むかのようだった。
「…………ふぅ」
アレンが静かに息を吐き、右手を下ろした。自身の内側の魔力は、かつてないほどに凪いでいた。荒れ狂っていた奔流は、サツキという楔を介して、静かな、そして心地よい熱を伴った循環へと変わっている。掲げていた腕を下ろす仕草にも、これまでにない滑らかさがあった。
サツキは頬を微かに上気させ、肩で息をしながらも、誇らしげにアレンを見上げた。彼女の胸の内には、達成感とも安堵ともつかない、温かな充足感が満ちていた。
「……やったな、サツキ」
「はい、アレン様。……お守りいたしました」
アレンは、自分を支えるサツキの硬い手の感触を、今度は自分の方から強く握り返した。それは、一国の騎士としての信頼でも、戦友としての敬意でもない。
自身の地獄を半分分かち合い、共に歩むことを許した、唯一無二のパートナーへの──。「不器用な拒絶」が、雪原の朝日の下で、解けることのない「必要不可欠な信頼」へと昇華した瞬間であった。
三番目の星が、最強の魔軌士を完成させた。白銀に染まったノルディアの空に、新しい時代の号令が、静かに、けれど力強く響き渡ろうとしていた。遠く発電所の駆動音が、破壊の痕跡を残さぬまま、変わらぬ調子で唸り続けていた。その音は、この国の再建という確かな未来が、今この瞬間から静かに紡がれ始めたことを、告げているようだった。




