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ノルディア北端の夜は、すべてを白く塗りつぶす猛吹雪の咆哮に支配されていた。視察団が目指す魔石発電所の周辺は、安全保障上の理由で一切の宿泊施設が存在しない。護衛隊は雪原のただ中に、厚い断熱防魔材で構成された六角形の『緊急魔導シェルター』を展開していた。
金属質の壁が外部の極低温を完璧に遮断し、室内には魔石ヒーターが放つ微かな駆動音と、温かな空気が満ちている。だが、窓外で吹き荒れる氷点下四十度の暴力は、分厚い防弾ガラスを時折激しく叩き、内側にいる者たちに世界の峻烈さを思い出させていた。ガラスの表面には薄く霜が張り、その向こうに広がる闇はどこまでも深く、光を一切許さない漆黒に沈んでいた。
アレン・ヴァルグレイは、窓外の闇を見つめたまま、自身の右拳をじっと見つめていた。数日前、帝都イグナイトの軍務院。彼はこの指を鳴らすだけで、帝国の権力者たちを分子レベルで消去してみせた。だが、今日の雪原での戦闘はどうだったか。指先の感触を確かめるように、彼は拳をゆっくりと開き、また閉じた。
(……滑稽だな)
アレンの低い独白が、シェルターの壁に跳ね返る。理外の力を持ち、神のごとき蹂躙を可能にしながら、自分は一発の鉛弾をスマートに止めることができなかった。魔術という理を支配しても、この世界に厳然として存在する「物理」という稚拙な暴力の前では、一人の脆い人間に過ぎない。天井の照明が落とす淡い光の中で、彼の影が長く床に伸びていた。
「……アレン様」
静かな、迷いのない声が背後から彼を呼んだ。サツキ・ハートフィールドが、愛槍《朧月》を壁に預け、アレンの数歩後ろに立っていた。彼女の茶系のポニーテールは解かれ、肩に流れる長い髪がヒーターの熱を受けて微かに揺れている。戦闘の余韻を纏った彼女の頬には、まだうっすらと朱が差していた。
アレンは振り返ることなく、自身の右手に視線を落としたまま告げた。
「帝国の首脳を蒸発させた俺が……魔術ですらない、たった数発の鉛の弾丸から陛下を守れなかった。……サツキ、お前が屋根の上に現れなければ、俺は今頃、自分の無力さを噛み締める暇さえなく、泥を啜っていただろうな」
自嘲気味な言葉には、全能の英雄が抱えるあまりにも無様な「死角」への、深い虚無感が滲んでいた。窓の外を吹き荒れる風の音だけが、その沈黙を埋めるように室内に響いていた。
「アレン様が、天災だというのなら。……私はその中心で、あなたを繋ぎ止める楔になりましょう」
サツキが、躊躇いなくアレンの懐へ、彼の纏う漆黒の魔力圧が肌を焼くほどの至近距離へと歩み寄った。床を踏む足音は静かで、それでいて一切の迷いがなかった。
「あなたが消せないものを、私が斬ります。あなたが防げないものを、私が弾きます。……それが、私がここにいる理由。私が、あなたの『盾』として選ばれた意味です」
サツキはそう言い切ると、アレンの震える右手を、自身の両手でそっと包み込んだ。アレンは目を見開き、初めて彼女を正面から見据えた。触れ合ったサツキの手は、厳しい修行でできたタコがあり、鋼のように硬かった。だが、そこから伝わってくるのは、吹雪の夜を溶かすほどに確かな、生きている人間の体温であった。指先の一つ一つに刻まれた鍛錬の跡が、彼女の生き方そのものを物語っているようだった。
「…………」
アレンの脳裏に、数日前の深夜、宮殿の回廊での光景が鮮烈に蘇った。あの日、冷たい回廊でサツキは自分に、あまりにも狂おしい誓願をぶつけてきた。あの時の彼女の瞳の強さを、アレンは今でも鮮明に思い出すことができる。
「サツキ。……あの夜、廊下で言った言葉を覚えているか」
アレンの低い声が、サツキの指先にまで響く。アレンは視線を逸らさず、彼女の深い茶色の瞳を射抜いた。
「お前は言ったな。俺の地獄を、半分預けてほしいと。……だがな、サツキ。お前が望んだ地獄は、このシェルターの外にある吹雪よりもずっと冷たくて暗いぞ。一度踏み込めば、二度と日向の温もりを思い出すことはできない」
それは再確認であり、最後の「拒絶」を装ったアレンなりの慈悲であった。彼の声には、突き放すような硬さと、それを裏切るような微かな震えが同居していた。
「……覚えています。忘れるはずもありません」
サツキの唇が、静かに、そして力強く弧を描いた。彼女はアレンの大きな手首をさらに強く握り込み、その硬さを確かめるように力を込める。ヒーターの音だけが、二人の間に流れる沈黙を静かに埋めていた。
「地獄の底まで、共にお供いたします。……そこがどれほど冷たくとも、私があなたの傍らで燃え続けましょう。アレン様……。それが私の望みであり、選んだ道ですから」
サツキは微笑んでいた。それはアレンを哀れむ者の笑みではなく、等しく地獄を歩む覚悟を決めた、一人の同志の、そして一人の女性の美しい微笑であった。窓の外では相変わらず雪が吹き荒れていたが、その荒々しさすらも、今の彼女には遠い出来事のように感じられていた。
「…………そうか」
アレンの胸中にあった、氷のように冷たい虚無が、サツキの手から伝わる「武」の熱によって、じわじわと解かされていくのを感じた。これまでリィナの献身に癒やされ、セリスの忠誠に支えられてきた。だが、自分に欠けていた「物理的な安定」──理外の怪物を人間へと繋ぎ止めるための重りとして、サツキ・ハートフィールドという存在が今、完璧に自分の内側へと嵌まった。
二人の距離が、物理的な接触を超え、精神的な境界線を完全に消失させる。窓の外では依然として死を呼ぶ吹雪が吼え続けている。だが、シェルターの中、アレン・ヴァルグレイという一人の男の心臓は、三つ目の楔を受け入れるための静かな、けれど烈しい鼓動を打ち始めていた。
握り合った手のひらの中で、二つの体温がゆっくりと馴染んでいく。アレンはふと、この数ヶ月間、自分がどれほど多くの死線を「一人で」乗り越えてきたつもりでいたかを思い返した。だが、それは正しくなかった。リィナが、セリスが、そして今、サツキが──いつも誰かがその隣に立っていた。ただ、それを受け入れる余裕が、これまでの自分にはなかっただけなのだ。
「……明日、発電所へ向かう。俺の暴走を止める楔になってくれ、サツキ」
「はい、アレン様。謹んで、お引き受けいたします」
理外を繋ぐ、三つ目の回路。その誓いが雪原の夜に深く刻まれ、最強の魔軌士が完成されるための夜明けは、すぐそこまで迫っていた。シェルターの外では、吹雪が依然としてその猛威を振るい続けていたが、内側に満ちる静かな熱だけは、もはや誰にも冷やすことのできないものへと変わっていた。




