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ノルドヘイム国際空港に降り立った瞬間、肺の奥まで凍りつくような、峻烈な極低温の冷気がアレン・ヴァルグレイたちを襲った。滑走路のアスファルトには薄氷が張り、着陸した機体のタラップを降りるたびに、革靴の底が微かに滑る感触があった。視界の先にあるノルディア王国の首都ノルドヘイムは、重く垂れ込めた鈍色の雲に覆われ、まるで呼吸を止めたかのように静まり返っている。街全体を包む静寂は、単なる寒さゆえのものではなく、どこか張り詰めた緊張の気配を纏っていた。
「ようこそ、エリシア殿。遠路、感謝いたします」
出迎えたノルディア国王、レオニール・ノルディアが穏やかな笑みを浮かべて歩み寄った。銀がかった淡金色の髪に、誠実さを湛えた深い青の瞳。かつての暴君であった父王ヴァルターとは対照的な、調和を重んじる若き王の姿がそこにあったが、彼を包囲する街の空気は、降り積もる雪よりも冷たかった。歓迎の言葉の裏に、隠しきれない緊張の色が滲んでいるのを、リィナは敏感に感じ取っていた。
王宮へと向かう装甲魔導車の窓越しに、アレンは街並みを冷徹に観察していた。再建中の建物、配電網の修復に追われる作業員、そして沿道に立つ民衆の視線。足場を組んだ建物の骨組みが、まだ生々しい戦争の傷跡を物語っている。作業員たちの吐く白い息が、寒空の下で幾筋も立ち昇っていた。そこには「敗戦国の痛み」と、救済の手を差し伸べるガルディアへの複雑な不信感が、拭いきれぬ泥のようにこびりついていた。
「……歓迎されているとは言い難いな」
アレンの低い呟きに、隣のリィナが小さく頷いた。彼女の淡い青色の瞳には、街全体に漂う重苦しい魔力の淀みがはっきりとした「不安」として映っていた。窓の外を過ぎゆく人々の表情は硬く、車列を見つめる視線には敬意とも恐れともつかない色が滲んでいる。
王宮の重厚な防魔扉が開かれ、首脳会談が始まった。部屋の中央には円卓が置かれ、エリシアの背後にはアレン、リィナ、セリスが彫像のごとく控えている。天井の高い会談室には、氷を思わせる淡青色の照明が柔らかく灯り、その光が壁面に施された霜の紋様を静かに際立たせていた。
そして、レオニール国王の背後には、ノルディア王国が誇る五名の特級魔軌士が守護の陣を敷いていた。
中央に立つのは、魔軌士No.14、ヴァルグ・アイゼンヴォルフ。「無言の執行者」の異名通り、処刑人風の黒鎧に身を包んだその男は、一切の気配を殺して直立していた。彼の右隣には、翠眼の若きエース、No.17 リューネ・ストルムブレイド。左隣には、巨大な重盾を携えたNo.22 グラフト・シールドベア。さらにその後方には、苛烈な雷光を瞳に宿すNo.29 ザイロス・サンダーブレイクが控えている。
彼らの手元にある『アーク・リンク』には、数ヶ月前に全世界を震撼させたあの映像が保存されている。帝国の象徴であるヴァルツ・レグナスが重圧に沈み、アドラ・ヴェルンハイトの五色の光矢が霧散させられた、あの理外の光景だ。
普通であれば、その「事実」を見ただけで戦意など喪失するのが道理だ。だが、ノルディアの血気盛んな若手たち──リューネ、グラフト、ザイロスの三人は、自らの「理(魔術)」が通用しない世界を認めることができず、精神的な防衛本能としてある種の「正常性バイアス」に陥っていた。
(……映像なんてものは、いくらでも加工できる。特にヴァルゼン帝国ならな)
翠眼の若きエース、魔軌士No.17 リューネ・ストルムブレイドは、腰の細剣を握る指先に僅かな魔力を通しながら、冷笑を内側に隠していた。彼はあの映像を、帝国の「敗北を隠すための演出」だと信じ込もうとしていたのだ。敗北を個人の実力のせいにするよりは、対抗不能な『天災』のせいにした方が、帝国の威信を保てる。そんな政治的策略によるフェイクニュースに、世界中が騙されているだけだ──。
(俺の風速なら、あの男が指を鳴らす前に首を跳ねられる。風は目に見えない。光よりも速く、静かに断てるのは俺の『理』だ)
リューネの隣で、巨躯を誇る魔軌士No.22 グラフト・シールドベアもまた、似たような妄想に浸っていた。彼は自身の重盾と魔力障壁の耐久力に絶対の自信を持っていた。彼の分厚い掌が、盾の縁を確かめるように何度も撫でている。
(ヴァルツが跪いたのは、不意を突かれたからに過ぎない。俺の盾と、この密室という地の利。五人で囲んで一斉に飽和攻撃を叩き込めば、どれほど魔力量が多くても『器』の容量を超えさせて爆発させられる。数は正義だ)
彼は、アレンが「軍勢を一瞬で溶かす」存在であることを知識としては知っていた。だが、目の前に立つ青年が、自分と同じ「肉体」という脆弱な器を持っているようにしか見えないことが、彼に致命的な誤解を与えていた。
最も好戦的な魔軌士No.29 ザイロス・サンダーブレイクに至っては、アレンから立ち昇る漆黒の魔力圧を「ただのハッタリ」と断じていた。
(映像のアドラは遊びすぎた。俺の雷脚なら、思考する暇さえ与えずに間合いを詰められる。魔術消去だろうが何だろうが、発動させる前に物理的な衝撃で脳を揺らせば終わりだ)
彼らが抱いていたのは、強者ゆえの冷静な分析ではない。自分たちがこれまで積み上げてきた「特級魔軌士」というブランドを否定されたくないがゆえの、あまりにも稚拙な現実逃避であった。
一方、唯一アレンの恐ろしさを肌で知っている魔軌士No.31 ミレイア・フロストヴェイルだけは、隣に立つ同僚たちの殺気が、死へ向かう葬列の行進曲にしか聞こえず、絶望に顔を青ざめさせていた。彼女の白銀の髪の下、氷色の瞳がわずかに揺れ、握りしめた指先が震えているのが、隣に立つ誓導者エルミアにだけは見て取れた。
壁際に立つサツキ・ハートフィールドの茶系のポニーテールが、微かに揺れた。彼女の瞳は、穏やかなレオニール国王ではなく、背後に控える魔軌士たちに向けられていた。武人としての凄まじい集中力。魔術的な感知では捉えきれない、肌を刺すような物理的な「殺意の熱」を、彼女の直感は正確に捉えていた。呼吸の深さすら意識的に抑え、彼女は視線だけをわずかに動かして三人の様子を追い続けた。
(……三つの、澱んだ熱)
サツキの視線が、リューネ、グラフト、ザイロスの三人を射抜く。彼らはガルディアの「切り札」であるアレンを排除し、自国の主権を守るための暗殺を企んでいた。彼らの手は、いつでも武器に触れられる位置にあり、その視線はアレンの喉元や心臓の座標を執拗に探っている。指先の微かな痙攣、視線の動きの規則性、呼吸のタイミング――そのどれもが、彼女には隠しようのない予兆として映っていた。
「レオニール殿。単刀直入に申し上げますわ」
エリシアが、凛とした声で沈黙を破った。円卓に置かれた両手が、静かに、しかし力強く組まれる。
「ヴァルゼン帝国……特に『黒鋼派』との関係を、完全に断絶していただきたい。彼らの技術提供は、平和への毒ですわ」
公女王エリシアの凛とした宣告が、暗殺のトリガーとなった。
(今だ!)
リューネが風の推進力を練り、グラフトが盾を構え直し、ザイロスが雷の初速を爆発させようと筋肉を強張らせた、その一瞬。
アレン・ヴァルグレイが、首を僅かに傾け、彼らを「一瞥」した。
その瞬間、リューネたちの脳内に構築されていた「滑稽な勝利の設計図」は、物理的な衝撃を伴って粉々に砕け散った。
アレンの漆黒の瞳が彼らを捉えた刹那、会談室の空気が物理的に消失したかのような、悍ましいまでの「虚無」が彼らを襲った。映像で見たあの重圧ではない。網膜を通じて脳髄を直接掴まれ、自分という情報の拠り所を根源から消去されるような、絶対的な死の気配。会談室の照明が、その圧に押されるように一瞬明滅した。
(……あ、ああ……)
リューネは、自分が風だと思っていたものが、ただの微風にすらなれぬ空気の淀みであると悟り、膝がガクガクと震え始めた。額に浮かんだ脂汗が、こめかみを伝って落ちていく。
グラフトは、自慢の重盾がただの「不快な鉄のゴミ」に見え、それを掲げる腕が、重力に従って石床へと引きずり込まれるのを感じた。彼の呼吸が、知らぬ間に浅く、速くなっていた。
ザイロスは、放とうとした雷が、目の前の「巨大な深淵」に吸い込まれて自分自身を焼き尽くすイメージに囚われ、指先がピリつくどころか凍りついたように動かなくなった。喉の奥から、声にならない呻きが漏れそうになるのを、彼は必死に押し殺した。
彼らが「映像の加工」だと信じようとしていたものは、実物の百分の一も表現できていなかったのだ。アレンの纏う魔力は「理」などではなく、世界の理そのものを書き換えてしまう、抗いようのない天災そのものだった。
リーダーである魔軌士No.14 ヴァルグ・アイゼンヴォルフが、眉間を僅かに寄せ、殺意を完全に消し去って沈黙を強いた。その「救済」がなければ、彼ら三人は本能的な恐怖に耐えかねて、その場で叫び声を上げていたに違いない。ヴァルグの視線は無言のまま三人へと向けられ、それだけで彼らの肩が強張った。
サツキ・ハートフィールドは、彼らの「殺気が恐怖に上書きされた瞬間」の醜い歪みを、憐れむような瞳で見届けていた。彼女の胸中には、かつて自分自身が理外の壁に打ちのめされた記憶がわずかに重なっていた。
彼女は音もなくアレンの背後に移動し、唇を耳元に寄せた。
「……アレン様。不穏な殺気でした」
その声は、隣のリィナにすら聞こえないほど微かだった。
「警備の魔軌士のうち三名。……リューネ、グラフト、ザイロス。彼らには確かな殺意がありました。けれど……今、あなたを見て『ひびり』ましたね。手出しはしてきません」
アレンは表情を変えず、ただ右腰に添えたばかりの《蒼断刃》に、無造作に手を置いた。刃の柄に触れる指先の動きは、警戒というよりも、確認に近い所作だった。
「……そうか。分かった」
それは、目の前の特級魔軌士たちを「敵」とすら認識していない、事務的な処理の姿勢。リューネたちは、溢れ出す脂汗を拭うことさえ忘れ、アレンに戦慄しながら、自分たちの無知とバカさ加減を、死の淵で初めて理解したのであった。
会談は続けられ、レオニール国王が苦渋の決断を下し、ガルディアとの共同研究を受け入れると告げた。円卓に置かれたペンが、正式な文書に署名の音を静かに刻んでいく。その一筆一筆が、これから始まる新たな協力関係の重みを物語っていた。
再建の光が差すはずの王宮には、依然として帝国の、そして強硬派の冷たい影が深く落ちている。だが、サツキという「武の防波堤」が機能し始めたことで、アレン達の円環は、かつてないほど盤石なものとなっていた。窓の外では、雪がまた静かに降り始め、白い結晶が氷の王都を音もなく覆っていった。




