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高度一万メートル。ガルディア公国専用の大型魔導航空機は、静かに雲海を切り裂いていた。眼下に広がる白い雲の海原は、どこまでも果てなく続き、時折その切れ目から覗く地上の景色だけが、自分たちが確かに空を渡っていることを実感させた。
貴賓室の窓の外。四機の魔導戦闘機が、鉄の翼を並べて厳重に随伴している。公女王エリシアの公式視察に合わせ、空域は完全に封鎖されていた。翼端灯の点滅だけが、規則正しく夜の帳を刻んでいる。
室内を支配するのは、重厚なまでの静寂。エンジンの低い駆動音だけが、絶え間なく空間を満たしていた。アレン・ヴァルグレイは、眼下に広がる純白の連峰を見つめていた。連なる峰々は太陽の傾きに応じて陰影を変え、まるで生き物のようにその表情を移ろわせている。
「……北部の環境は、想像以上に過酷だな」
ノルディア王国北部。和平から一年が経った今も、そこは死の冷気に閉ざされたままだ。地図の上では単なる線と点に過ぎないその土地が、実際には人々の営みを圧し潰すほどの厳しさを持っていることを、アレンは窓越しの光景から静かに読み取っていた。
「アレン様。……何か、懸念されることが?」
リィナが、隣から不安げに問いかける。彼女の淡い青色の瞳には、窓の外の雪原の輝きが小さく映り込んでいた。アレンは、右腰に添えたばかりのショートソードの感触を確かめた。まだ手に馴染みきっていない重さが、かえって彼の意識を研ぎ澄ませているようだった。
「帝都で消した『黒鋼派』の残滓だ」
「奴らの負の遺産が、北部の再建現場に潜伏している可能性がある」
特に、サハリスのアーラム機関から流出した精神干渉技術。人工的に波長を変質させた「アーク・ジャマー」が流用されていれば、厄介だ。アレンは、その「異質な魔力」の感触を、肌で警戒していた。過去に何度も経験した、あの不快な高周波の残響が、脳裏の片隅にこびりついて離れない。
「黒鋼派の卑劣な罠など、私がすべて焼き払いましてよ」
セリスがレイピアの柄に手をかけ、凛とした口調で断じる。その言葉には迷いがなく、彼女なりの覚悟が滲んでいた。だが、アレンの表情は晴れない。自分の「理外の力」を逆手に取られる危うさを、彼は常に想定していた。力そのものが強大であればあるほど、それを利用しようとする者の思惑もまた、深く、静かに忍び寄ってくる。
その時、室内にピリついた“武の気配”が漂った。サツキ・ハートフィールドが、窓の外の雪原を凝視したまま動かずにいる。高く結い上げられた茶系のポニーテールが、航空機の振動で僅かに揺れた。彼女の視線は、遥か眼下に広がる白い大地の、さらにその奥にある何かを見透かそうとしているかのようだった。
サツキの手が、家伝の薙刀《朧月》の柄をゆっくりと握りしめる。革の擦れる音が、静かな貴賓室に小さく響いた。その瞳には、かつて別邸に置いていかれた時の孤独や焦燥はない。
(……今度こそ、私はあなたの楔になる。何があろうと)
その内心の呟きは、彼女自身の胸の奥深くに刻まれた、静かな誓いだった。魔力循環誓約を結んでいるわけではない今の自分にできることは、ただ武を研ぎ澄ませ、傍らに立ち続けることだけだ。だが、その「ただ立つ」ことこそが、彼女にとってはこれ以上ない意味を持っていた。
窓外に広がる峻烈な雪山。そこには、魔術師が感知し得ない「物理的な殺意」が潜んでいる予感がした。それは根拠のない直感ではなく、幾度も命のやり取りをくぐり抜けてきた武人だけが持つ、研ぎ澄まされた第六感だった。サツキは、その微かな震えを武人の直感で捉えようと、全神経を研ぎ澄ます。呼吸のリズムすら意識の外へと押しやり、ただ雪原の奥に潜む気配だけを追っていた。
リィナはそんなサツキの横顔をちらりと見やり、それから静かにカップに口をつけた。湯気の立つ茶の香りが、張り詰めた室内にわずかな和らぎを与える。セリスもまた、磨き上げたレイピアの刃を確かめるように陽光にかざし、小さく息を吐いた。誰も言葉を発さずとも、それぞれが自分なりの形で、これから訪れる戦いへの準備を整えていた。
航空機がノルディア領空へと深く侵入していく。窓の外の雲の色が徐々に灰色を帯び、遠く雪雲の切れ間から、鈍色の大地がその輪郭を覗かせ始めた。静寂の裏側で、鋼と魔力が火花を散らす時間は、刻一刻と近づいていた。
エンジンの駆動音だけが、変わらぬ規則正しさで空間を満たし続けている。だがその静けさは、次に訪れるであろう激動を予感させるがゆえに、いっそう重く、冷たく感じられた。四人はそれぞれの想いを胸に抱えたまま、白く染まりゆく大地へと近づいていった。




