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女神歴二一九七年十一月十六日。
ガルディア公国、宮殿別邸の朝は、白く濁った冷たい霧に包まれていた。庭園の木々は霜を纏い、窓硝子の向こうに広がる景色は輪郭を失い、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。暖房の効いた応接室にも、その朝特有の張り詰めた冷気がわずかに滲んでいる。
重厚なテーブルの上には、三つの木箱が整然と並べられていた。表面には焼き印で刻まれた紋様――ハイロック工房の銘だ。木の香りに混じって、微かに魔力の残滓を思わせる匂いが漂っている。
「……ようやく、届いたか」
アレン・ヴァルグレイが、木箱を見下ろして低く呟いた。その声には安堵とも呆れともつかない響きがあった。
本来なら、一ヶ月前には納品されているはずだった。だが、迷宮三か国合同外交団来訪からアーク・ジャマー工作事件まで、相次ぐ激動が、職人の手を止めさせていたのだ。あの晩餐会の混乱、そして深夜の帝国工作員の襲撃――その全てを経て、ようやくこの静かな朝に辿り着いたことを思うと、木箱の存在そのものが、過ぎ去った嵐の重さを物語っているように見えた。
「お待たせいたしました、アレン様。ガルネリアが誇る《ハイロック工房》の最高傑作です」
侍従が恭しく一歩下がる。その声には、遅延を詫びる緊張と、届けられたことへの誇らしさが同居していた。
リィナが、おずおずと一番小さな箱を開けた。中には、鈍い金光を放つ全長二十センチのショートロッド。
銘は《澄光星環》。
「……っ。アレン様、これ……」
リィナが指先を触れさせた瞬間、柔らかな光の粒子が溢れ出した。淡い金の光が指の間から零れ、天井の照明とは異なる、生きたような温もりを持って室内をほのかに照らす。
魔力伝導率が、以前の物とは比較にならない。思考詠唱した瞬間に術式が組み上がる感覚があった。《三重魔導護膜》の展開速度も、これならさらに引き上げられるはずだ。
「素晴らしいです……。魔力が、私の体の一部になったみたい」
リィナの淡い青色の瞳が、わずかに潤んで揺れた。控えめな彼女には珍しく、その声には隠しきれない喜びが滲んでいる。
隣で、セリスも自身の箱を開けていた。現れたのは、優美な曲線を描く金色のレイピア。
銘は《煌光穿》。
「……ふふ、見事な集束効率ですわ。これなら《爆炎砲》の連射も容易です」
セリスが軽く一突きすると、空間に鋭い熱波が走った。刃先から立ち上る陽炎が、テーブルの上に置かれた花瓶の水面をわずかに震わせる。魔力消費を抑えつつ、火力を最大化する。まさに「攻撃魔術の天才」に相応しい一振りだった。
最後に、アレンが一番大きな箱を手にした。中にあるのは、剣というよりは大型のナイフに近いショートソード。
銘は《蒼断刃》。
特徴らしい装飾は一切ない。ただ、吸い込まれるような鈍い銀色の刃が、そこにあるだけだ。装飾を排したその佇まいは、どこか無骨で、しかしそれゆえに信頼に足る道具の顔をしていた。
アレンは無言でそれを抜き放った。そして。
――ッ!
上段から縦に、無造作な一振り。
空気を切り裂く、重厚で鋭い風切り音が室内に響き渡る。魔術を介さない、純粋な身体能力による一閃。その刃の軌跡は誰の目にも留まらず、ただ余韻となった風の唸りだけが、テーブルの上の書類を微かに揺らした。アレンは刃を眺めることもなく、静かに鞘に収めた。
「問題ないな」
短く言い、迷いなく右腰へ添えた。手に馴染む重さを確かめるように、指先が柄をひとたび握り直す。それだけで、彼にとっての「合格」だった。
三人が、それぞれの新たな「力」を確認し合う。それは、魔力循環誓約によって結ばれた者たちの、揺るぎない絆の象徴でもあった。互いの得物を見比べ、微かに笑みを交わす二人の誓導者の姿には、幾度もの死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、静かな一体感が滲んでいた。
「…………」
その様子を、部屋の隅で静かに見つめる瞳があった。
サツキ・ハートフィールド。彼女の傍らには、常に愛用している家伝の薙刀《朧月》が立てかけられている。それは名刀であり、彼女の魂そのものだ。長年の鍛錬と共に歩んできた、掛け替えのない一振り。だが。
(……羨ましい、と。そう思ってしまったのか、私は)
三人が手にしたのは、ただの武器ではない。互いの魔力を補い、高め合うための「誓いの具」だ。武人として、その一体感は眩しすぎた。自分だけが、まだその「輪」の外側にいる。
窓の外の霧はまだ晴れきらず、庭園の輪郭を朧に霞ませていた。その霞のような曖昧さこそが、今の自分の立ち位置に似ていると、サツキはふと思った。
凛とした立ち姿のまま、サツキはわずかに拳を握りしめた。掌に食い込む爪の感触が、かえって彼女の意識を鮮明にする。胸の奥に芽生えた、小さな、だが無視できない疎外感。その熱が、次の戦いへの予感を孕んで静かに燃えていた。
朝霧の向こうで、鐘の音が遠く響いた。それはまだ、彼女の知らない何かの始まりを告げる音だったのかもしれない。




