22-12
東大陸、ヴァルゼン帝国。その心臓部である帝都イグナイトの朝は、絶望的な静寂と共に始まった。
「……報告しろ。何があった」
帝国皇宮、玉座の間。皇帝ダリオス・ヴァルゼンが、低く、地を這うような声を響かせた。その圧倒的な“帝王の気配”に、報告に現れた情報局長は全身を震わせ、床に額を擦りつける。玉座の間を満たす荘厳な静けさの中で、局長の呼吸だけが、不釣り合いなほど乱れて響いていた。
「……軍務院地下、黒鋼派専用区画にて……」
局長の声が、恐怖で上擦る。「ダルケン次官、レグナス局長、ヴァルド局長の三名が、忽然と姿を消しました。……死体も、争った形跡も、血痕すら残されておりません」
ダリオスの鋭い黒い瞳が細められた。「蒸発したとでも言うのか」
「いえ……。現場は、まるで彼ら三人と機密資料だけが、概念的に『削り取られた』かのような状態です。魔力残滓すら……アレン・ヴァルグレイを捉えたはずの記録すら、一切が消失しております」
「…………」
ダリオスは、深く玉座に背を預けた。彼は、黒鋼派が独断でガルディアへの干渉を行っていたことを把握していた。アーク・ジャマー。あの男を自壊させるための、帝国の叡智の結晶。玉座の肘掛けを握る彼の指先には、常人ならざる重圧が滲んでいた。
だが、返ってきたのは「報復」ではない。抗いようのない「理外の断罪」だった。
(……やったのは、あの男か)
ダリオスは、自身の指先を見つめる。帝国の誇る防魔結界も、重厚な魔力遮断壁も、あの男の前では「存在しない」も同然。軍事国家の常識が、たった一人の「天災」によって、紙切れのように破られたのだ。玉座の間に差し込む朝の光が、皇帝の横顔に硬質な陰影を刻んでいた。
「……ヴァルツを呼べ」
ダリオスの命令に応じ、一人の男が静かに、だが重圧を伴って現れた。帝国軍の象徴。特級魔軌士No.1、ヴァルツ・レグナス。その足音は、玉座の間の静寂を乱すことなく、しかし確かな重みを伴って響いた。
「ヴァルツよ。これより、ガルディア公国に対する一切の工作を禁ずる。黒鋼派の残存部隊もすべて、速やかに粛清しろ」
「……御意。しかし、皇帝陛下。それでは帝国の威信が……」
「威信か」
ダリオスが、冷徹な笑みを浮かべた。「自然災害に威信など通じぬ。次に奴がここへ来れば……消えるのは三名の首脳ではなく、この帝国そのものだ」
ダリオスの言葉は、冷徹なまでの合理性に基づいていた。これは敗北ではない。国を滅ぼさぬための、唯一の戦略的撤退。長年帝国を統べてきた彼の判断基準――現実主義と国家の存続――が、今この瞬間もなお、彼の中で揺るぎなく機能し続けていた。
「……アレン・ヴァルグレイ。貴様は世界を救う鍵か、あるいはすべてを無に還す刃か」
皇帝の独白。その問いに答える者は、帝都のどこにもいなかった。玉座の間を包む静寂の中、ヴァルツもまた、皇帝の言葉の重みを噛み締めるように、しばし沈黙を保っていた。窓の外には、何も知らぬ帝都の朝が、変わらぬ喧騒とともに広がり続けていた。街を行き交う人々の声、遠くから聞こえる魔導車両の駆動音――それらすべてが、玉座の間に満ちる緊張とはあまりにも無縁の、平穏な日常を映し出していた。
ダリオスは、しばらくの間、窓の外へと視線を移した。彼の脳裏には、これまで積み上げてきた帝国の軍事的優位という概念が、たった一人の男によって根底から覆されたという事実が、重く沈み込んでいた。皇帝としての誇りと、国家を守るための冷徹な計算。その狭間で、彼は静かに、しかし確かな決断を下していた。
「……下がれ。他に報告はあるか」
「……いえ、以上でございます、陛下」
情報局長が、震える声でそう答えると、静かに退室していった。玉座の間に一人残されたダリオスは、深く息を吐き、目を閉じた。彼の脳裏には、あの「散歩」と称された帝国魔導要塞の蹂躙、そして首脳会議での圧倒的な力の証明が、鮮明に蘇っていた。
あの男を敵に回せば、帝国は終わる。その確信だけが、皇帝としての彼の判断を、揺るぎないものにしていた。玉座の間に差し込む朝の光は、依然として穏やかに床を照らし続けていたが、その静けさの奥で、帝国という巨大な国家機構そのものが、静かに、しかし確実に、その姿勢を変えようとしていた。




