22-10
深夜、宮殿の廊下は、不気味なほどに静まり返っていた。先ほどまでアレンの周囲に渦巻いていた「死」の気配は、午前に報告を終えたことで深い沈黙へと沈んでいる。アレンは一人、別邸へと続く回廊を歩いていた。魔導灯の淡い光が、規則正しい間隔で彼の影を石床に落としては、また闇へと溶かしていく。
自分が背負う「零」の力。それは守るべき者を守るための剣であると同時に、触れるものすべてを侵食し、自分自身を人間から遠ざけていく呪いでもある。帝国の影を消したところで、その事実は変わらない。アレンの足取りは、これまでの戦いの疲労を微塵も感じさせぬほど静かだったが、その内側には、まだ拭い去れない重苦しさが澱のように沈んでいた。
「……アレン様」
不意に、暗がりの先から声がした。
別邸へと続く曲がり角。月光が差し込む大柱の傍らに、一振りの槍のように凛として立っていたのは、サツキ・ハートフィールドであった。彼女は、アレンたちが「掃除」へと発ったあの時から、一歩も動かずにここで帰還を待ち続けていたかのような、凄絶なまでの静止を保っていた。その姿は、まるで大柱そのものと一体化したかのように、揺らぎ一つなかった。
アレンは足を止め、短く応じた。
「……どうした。サツキ。まだ、休んでいなかったのか」
サツキはゆっくりと歩み寄り、アレンの正面で足を止めた。茶系のポニーテールが、彼女の静かな動きに合わせて背中で微かに揺れる。深い茶色の瞳は、迷宮での戦闘時よりも鋭く、そして、剥き出しの刃のような悲痛な決意を宿していた。
アレンの鼻腔を、サツキの纏う「清浄な武の気配」がくすぐった。それは、先ほどまで自分が浸っていた鉄と死の臭いとは対極にある、鍛錬と誠実さが磨き上げた命の匂いだ。その匂いに触れた瞬間、彼の胸の奥で、何かがわずかに緩むような感覚があった。
「……私を、アレン様の……誓導者にして頂けませんか」
一点の曇りもない、真っ直ぐな請願。魔力循環誓約――それはこの世界において、己の魂と魔力、そして人生のすべてを捧げるという、婚姻と同格の重みを持つ魂の契約である。彼女の声は震えていたが、その言葉の芯には、揺るぎない決意が宿っていた。
アレンは、短く目を伏せた。
「……すまない。それはできない」
一切の感情を削ぎ落とした、氷の壁のような拒絶。
「俺には……守るべきものがある。リィナとセリス。今の俺には、それ以外を抱え込む余裕も、資格もない」
アレンの言葉には、彼特有の、呪いにも等しい自己犠牲が滲んでいた。自分と繋がるということは、この理外の魔力がもたらす激痛と、常に「世界の理」を破壊し続ける地獄の歩みに同行するということだ。彼は、サツキという清廉な武人を、その泥沼に引き込みたくはなかった。廊下を吹き抜ける夜風が、二人の間をすり抜けていく。
だが、サツキは退かなかった。彼女はあえてアレンの懐へ、彼の纏う漆黒の魔力圧が肌を焼くほどの至近距離へと一歩踏み込んだ。
「私は、守られるために志願しているのではありません!」
サツキの拳が、指関節が白く浮き出るほど強く握り締められる。彼女の瞳には、アレンの言葉という「盾」では防ぎきれないほどの、峻烈な感情の奔流が渦巻いていた。
「私は、見ていたのです。あの夜、扉の向こうで、あなたがどれほどの『絶望』の中にいたのかを。私たちが届かない暗闇の底で、たった一人でどれほどの悲鳴を上げていたのかを!」
サツキの脳裏には、ジャマーの強襲が始まる直前、アレンの寝室から漏れ出していたあの悍ましい魔力の質感が焼き付いている。それは無敵の騎士の覇気などではない。葬ってきた者たちの怨嗟と、独りで抱え込んできた途方のない孤独が混ざり合った、死よりも冷たい絶望の色だった。あの光景を思い出すだけで、彼女の胸はまだ締め付けられるように痛んだ。
「私はあなたの力になりたい。あなたの隣に立ち、あなたの背中を守るための、物理的な盾になりたいと願ってきました。……けれど、それだけでは足りないのです!」
サツキは、自身の胸の奥にある「誓願」を、震える唇から絞り出した。
「アレン様……。あなたの内側にある『地獄』を、私に半分ください」
「――っ」
アレンの身体が、物理的な衝撃を受けたかのように微かに揺れた。
その言葉は、アレン・ヴァルグレイという男がこれまで築き上げてきた、あらゆる論理的な「防壁」を正面から叩き割る一撃だった。彼を慕う者は多い。彼の力を崇める者も、恐れる者も。だが、彼の内側にある逃れられぬ苦痛を、その「地獄」そのものを共有させてほしいと、真っ直ぐに求めてきた者はリィナとセリス以外にいなかった。
アレンは、初めてサツキという存在を、「ただの優秀な戦力」としてではなく、「自分の痛みを、本気で理解し、共に背負おうとする一人の女性」として意識した。その認識の変化は、まるで凍りついていた何かが、わずかにひび割れる音を立てたかのようだった。
サツキの瞳は、潤んではいなかった。武人としての矜持が、涙を流すことによる同情を拒絶している。だが、その渇いた瞳の奥に宿る献身の熱量は、リィナの献身とも、セリスの忠誠とも違う、サツキ・ハートフィールドという個人の魂が放つ「烈しい願い」であった。月光が彼女の横顔を照らし、その瞳の奥に燃える炎を、より一層鮮明に浮かび上がらせていた。
「…………」
アレンの視線が、サツキの強い眼差しから逃れるように、僅かに右下へと逸れた。
それは「No.0」としての冷徹な拒絶を維持できなくなった、決定的な一瞬の揺らぎであった。常に「理」を優先し、他者を遠ざけることで守ってきた彼の強固な防御姿勢が、サツキの「地獄を半分」という言葉によって、根底から軋みを上げたのだ。
アレンは、逸らした視線の先で、石床に落ちるサツキの影を見つめた。彼女はまだ、誓約も何もない、この冷たい回廊の「外側」に立っている。だが、彼女が放った言葉は、既にアレンの心の最深部にある、誰にも触れさせなかった傷口へと届いていた。廊下を吹き抜ける夜風の音だけが、二人の間に流れる長い沈黙を埋めていた。
沈黙。
その静寂そのものが、サツキにとっては、先ほどのアレンの冷酷な言葉よりも遥かに重い、そしてわずかな希望を含んだ「壁」となった。彼女は自身の鼓動が、静かな廊下の中で異様なほど大きく響いているように感じていた。
「……部屋に戻れ」
アレンがようやく口を開いた。その声は先ほどよりも低く、僅かに掠れていた。
「……少し、頭を冷やせ。お前が言っているのは、誇り高い武士が選ぶべき道ではない」
アレンはそれだけ言い残し、サツキの横を通り過ぎた。彼女に背を向け、一歩を踏み出すたびに、先ほどまで彼を支配していた事務的な冷徹さが、サツキという「熱」によってじわじわと解かされていくのを感じた。
背後から追いかけてくる言葉はない。
だが、去りゆくアレンのコートの背中に、サツキの静かな、だが決して折れることのない武人の視線だけが、いつまでも深く刺さり続けていた。自分の想いは、確かに届いた。その確信が、冷たい回廊に取り残されたサツキの胸の中に、消えることのない誓願の火を灯していた。月明かりだけが差し込む静かな回廊に、彼女はしばらくの間、一人立ち尽くしていた。




