22-6
別邸の応接間に、三段階の断罪という名の冷徹な結論が提示された。アレン・ヴァルグレイが床に置いたポータブル中継端末は、もはや帝国の科学の結晶などではなく、自らの首を絞めるための鉄の亡骸へと成り果てていた。
室内の温度は依然として氷点下に近い。アレンから漏れ出す漆黒の魔力圧は、物理的な質量を伴って空気中の水分を凍らせ、微細な氷の結晶が月光を浴びて不吉に煌めいている。応接間の調度品――彫刻の施された飾り棚や、王家御用達の絨毯――が、その圧に押されるようにわずかに軋みを上げていた。
アレンはリィナとセリスを伴い、部屋の出口へと歩を進めた。その背中は、もはや一国の騎士としての節度すら脱ぎ捨て、蹂躙のみを目的とした「天災」そのものの威圧感を纏っている。歩を進めるごとに、彼が踏みしめた絨毯の繊維が、目に見えぬ圧力によってかすかに沈み込んでいった。
「……待ってください!」
その静寂を、一際高く、震える声が切り裂いた。サツキ・ハートフィールドが、愛刀《朧月》を握りしめたまま三人の前に立ち塞がる。その深い茶色の瞳には、先ほどの戦闘で工作員を退けた武人の高揚感などは微塵もなかった。そこにあるのは、目の前で完成されている「三人の聖域」から取り残されることへの、根源的な恐怖と焦燥であった。汗の乾ききらぬ額に、廊下から差し込む月光が青白く反射している。
「アレン様、私も……私も同行させてください! 私も、あなた方の盾として、共に奴らを──」
アレンの足が止まった。だが、彼は振り返ることさえしなかった。サツキからわずか数メートルの距離。だがその間には、物理的な距離など問題にならないほどの、絶望的なまでの「境界線」が引かれていた。サツキの鼻先を、アレンから放たれる凍てつくような殺意の余波が掠める。その一瞬だけで、彼女の肌が粟立ち、握りしめた薙刀の柄に自然と力がこもった。
「お前はここにいろ」
低く、地を這うようなアレンの声。それは慈悲を削ぎ落とした、絶対的な命令であった。
「アレン様……!」
「……死にたくなければな。今の俺の視界に入るのは、敵か、あるいは俺に命を預けている『器』だけだ。お前を庇いながら戦えるほど、今の俺はまともではない」
サツキの心臓が、恐怖ではなく疎外感で激しく脈打った。アレンの言葉は、一見すれば彼女の身を案じているようにも聞こえる。だが、サツキには分かっていた。それが、アレンという男が抱え込んでいる理外の地獄――誓導者にしか触れることの許されない深淵へ、彼女が踏み込むことを明確に拒絶する言葉であるということを。喉の奥から込み上げてくる言葉にならない感情を、彼女は必死に飲み込もうとした。
「そんな……。私は、足手まといになるつもりはありません! 先ほどだって、私は……!」
「サツキ様」
リィナが、悲しげに目を伏せて遮った。その淡い青色の瞳には、自身もかつて味わったことのある「届かない苦しみ」への共感が滲んでいる。だが、彼女の隣に立つセリスは、峻烈な武門の娘としての顔でサツキを見据えていた。
「これより先は、公国の、いいえ、エルディア世界の理を破壊する『掃除』ですわ。アレン様が背負おうとしているのは、国家間の戦争さえ児戯に思えるほどの濁った血の海。……誓約なき貴女に、その重圧は耐えられませんわ」
セリスの言葉は、サツキの喉元に突きつけられた剣のように鋭かった。その声色に含まれる冷徹さは、決して悪意によるものではない。むしろ、これから起きることの重みを正確に理解しているがゆえの、誓導者としての率直な忠告だった。だがそれを理解していても、サツキの胸に走る痛みが和らぐことはなかった。
アレンが再び歩き出す。サツキは、伸ばしかけた手を虚空で止めることしかできなかった。三人の足音が廊下に響き、重厚な扉が閉まる。その瞬間、サツキ・ハートフィールドは、温かな光の漏れる部屋に取り残された「客人」に過ぎないことを、残酷なまでに見せつけられた。
彼女の拳が、白くなるほど強く握り締められる。胸を焼くのは、アレンに向けられた怒りではない。自分だけが、彼の痛みを分かち合う「資格」を持たないという、耐え難いほどの自己嫌悪であった。閉ざされた扉を見つめながら、彼女はしばらくの間、そこに立ち尽くすことしかできなかった。廊下の魔導灯が、その孤独な影を長く伸ばしていた。
宮殿の回廊を、三つの影が疾走する。すれ違う近衛兵たちは、三人の纏う「死神の残り香」に戦慄し、言葉もなく道を開け、石床に跪くことしかできない。アレンの周囲では、溢れ出した魔力が陽炎となって空間を歪ませ、彼が通り過ぎた後の絨毯には、目に見えるほどの深い沈み込みが残されていた。灯された魔導灯の光が、彼らが通り過ぎるたびに不規則に明滅し、まるで宮殿全体がその圧に怯えているかのようだった。
夜明け前の静寂に包まれた公女王執務室。エリシア・ヴァルステイン・ガルディアは、深夜の緊急連絡を受け、正装のまま窓外の闇を見つめていた。彼女の傍らに置かれたアーク・リンクの画面には、別邸から届いた被害報告が青白く点滅していた。扉が音もなく開かれ、アレンたち三人が入室した瞬間、室内の魔導照明が、アレンから放たれる圧倒的な魔力圧に耐えかねて不規則に明滅した。
「アレン殿……。状況は聞いています。別邸への侵入を許したこと、公女王として恥じ入るばかりです」
エリシアが振り返り、深々と頭を下げた。その所作には、国家元首としての威厳と、友人としての心からの謝罪が滲んでいた。だが、アレンはその謝罪を冷徹に受け流す。
「宮殿の面子はどうでもいい。だが、奴らはリィナとセリスを……俺の『器』を壊そうとした。それは、俺自身が壊れるよりも許しがたい暴挙だ」
アレンの漆黒の瞳が、エリシアを射抜く。その視線は、もはや対等な同盟者としてのそれではなく、獲物を前にした天災の眼光であった。エリシアは、その視線の重さに息を呑みながらも、決して目を逸らさなかった。
「陛下。……これは単なる暗殺未遂ではありません」
セリスが凛とした声で一歩前に出た。その手に持たれたアーク・リンクには、先ほど別邸で回収した三段階の証拠がホログラムとして展開されている。青白い光の中に、時刻データや魔力波形の解析結果が、無機質な数値となって浮かび上がっていた。
「ヴァルゼン帝国軍務院の非公開派閥──『黒鋼派』。彼らは皇帝ダリオスの制御を離れ、五度にも及ぶ執拗な工作を我が国、そしてアレン様に仕掛けてきました。リィナ、説明を」
リィナが静かに頷き、その淡い青色の瞳に『思考読解』の記憶を呼び起こす。
「一度目……四月の宮殿爆破事件。セリスの元侍従、エルンストを唆したのは黒鋼派の下級工作員です。彼の精神の隙間に『囁き』という名の毒を植え付け、公女王への不満を爆発させた。……私のリーディングは、彼の記憶の底に眠る、鉄と油の匂いがする『黒鋼』の残像を捉えています」
エリシアの眉が微かに動いた。信じていた侍従の裏切りが、実は他国の工作によるものだったという事実は、政治家としての彼女に冷や汗を流させる。彼女は無意識のうちに、机の上で組んだ両手に力を込めていた。
「二度目……六月の首脳会議、晩餐会での毒殺未遂。陛下、あの時のワインの毒をすり替えた給仕もまた、彼らの手駒でした。アレン様が事象修正を行わなければ、今頃この国は、後継者争いの戦火に包まれていたでしょう。……三度目、アレン様を『国際監視対象』に仕立て上げた情報の毒液。そして、八月に帝国のNo.1とNo.3を差し向けた、検分という名の不当な武力行使」
リィナの言葉が進むにつれ、執務室の空気は重く沈んでいく。エリシアの顔から、次第に血の気が引いていくのが分かった。これまで個別の事件として処理してきたものが、一本の悪意の糸で繋がっていたという事実の重みに、彼女はしばし言葉を失っていた。
「四度目……十月の晩餐会での『魔力暴発事件』。あれは事故ではありません。工作員自らが身を挺して暴走を演じ、その混乱を理由に、アレン様への『監視員の同行』を強引に認めさせた。……そして五度目が、今回の迷宮遠征でのデータ収集と、アーク・ジャマーによる襲撃です」
アレンが、執務室の机に拳を置いた。ミシリ、と重厚な木材が悲鳴を上げ、亀裂が走る。その乾いた音が、静まり返った部屋に不吉に響いた。
「十月二十五日。二十八階層。……奴らは、俺が苦痛に耐えていたその瞬間の魔力波形を、一秒の狂いもなく記録し、暗殺兵器の周波数に転用した。迷宮遠征一か月間の俺たちの献身を、俺の最愛の者たちを殺すための部品へと加工し続けていた」
アレンの言葉は、もはや告発ではなく、絶対的な断罪であった。その声の底に流れる怒りは、もはや熱を持たず、深い氷底のような静けさへと変じていた。
「……五度だ。五度も、俺の聖域に土足で踏み込んだ。……エリシア、俺はもう容赦しない。奴らを、根絶やしにする」
エリシアは目を閉じ、数秒の間、深く、長く呼吸を整えた。彼女の脳内では、外交的な損得、帝国との全面戦争の可能性、ガルディアの国際的地位──あらゆる要素が高速で演算されていた。だが、目の前に立つ青年の、今にも世界そのものを叩き潰さんばかりの怒りを前にして、もはや「話し合い」という選択肢が消滅していることを悟った。窓の外、夜明け前の空が、わずかに藍色を帯び始めていた。
ここでアレンを止めれば、彼はガルディアを去るだろう。そして、アレンという天災を失った瞬間、帝国は、あるいは黒鋼派は、今度こそ確実にガルディアを飲み込もうとするはずだ。その未来を天秤にかけたとき、彼女の答えは、もはや一つしかなかった。
「……一席ダルケン・シュタール、二席レグナス・ハーゼン、三席ヴァルド・グレイア」
エリシアが青い瞳を見開き、はっきりとその名を呼んだ。彼女の声には、一片の躊躇もなかった。
「この三名を、処刑してください」
その言葉は、ガルディア公女王としての、公式な「処刑命令」であった。
「皇帝の制御が届かない『癌細胞』のみを、外科手術のように切り離す。それが、公国を守り、帝国との破綻を避ける唯一の、そして最も合理的な道です。……アレン殿、あなたという天災に、ガルディアの、そして世界の未来を託します」
「承知した」
アレンは短く応じると、リィナとセリスを伴い、踵を返した。その足取りには、もはや迷いも躊躇もない。執務室の扉が開かれると、廊下から差し込む夜明け前の薄闇が、三人の輪郭を淡く縁取った。
「……掃除を始める」
アレンの手が、虚空を掴むように動く。《空間転移》の術式が、漆黒の魔力となって三人の足元から立ち昇った。魔力の粒子が渦を巻き、床に幾何学的な紋様を描き出していく。
同じ頃、別邸の自室。サツキ・ハートフィールドは、月明かりだけが差し込む暗い部屋で、一人立ち尽くしていた。手元には《朧月》。先ほどの戦闘で、自分はこの武器を使い、確かに二人を守った。アーク・ジャマーの不協和音を切り裂き、工作員を圧倒したはずだ。刃の腹に触れる指先には、まだ確かな戦いの余韻が残っていた。
だが、どれほど武を極めようとも、あの三人の間に流れる、魂を直接共有し合うような濃密な「繋がり」には、一歩も近づけない。窓の外を見つめる彼女の瞳には、宮殿の奥へと消えていったであろう三人の気配が、まだ微かに残されているかのように感じられた。
(お前はここにしろ。……死にたくなければな)
アレンの突き放すような声が、耳の奥で何度もリフレインする。サツキの目から、一筋の熱い涙が零れ落ち、鋼の刀身に音もなく弾けた。涙の跡が月光を反射し、刀身にわずかな光の筋を残した。
「……私は」
彼女は、自分を置いて、今この瞬間にも地獄へと跳躍していったであろう三人の気配を、自身の鋭敏な武人の直感で捉えていた。宮殿の一角から、理外の魔力が一気に収束し、消失したのを感じる。その気配が完全に消えた瞬間、部屋を包む静寂は、これまでのどんな戦場よりも深く、重いものに感じられた。
サツキは、唇を血が滲むほどに噛み締めた。戦いには同行させてもらえなかった。自分はまだ、アレン・ヴァルグレイという男の「内側」に入る資格を持たない。
「……諦め、ませんよ」
彼女は涙を拭うと、暗闇の中で再び《朧月》を構えた。置いていかれたのは、自分が弱かったからではない。アレンの隣に立つための「魂の契約」が足りていないからだ。その事実を噛み締めながらも、彼女の瞳には、消えることのない意志の光が確かに宿っていた。
三人が帝都イグナイトへと消えた、その静寂の裏側で。サツキ・ハートフィールドの胸の奥にある「誓願」は、かつてないほど烈しく、狂おしく燃え上がり始めていた。自分が守るべき背中が、今、自分を拒絶しながら戦っている。その事実が、一人の武人の魂を、新たな覚醒へと突き動かそうとしていた。月明かりに照らされた薙刀の刃だけが、その静かな決意を映し出すように、冷たく、しかし確かに輝き続けていた。




