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「……チッ、これ以上の継続は無理か!」
帝国の特科工作部隊を率いるリーダーが、忌々しげに吐き捨てた。彼の視線の先では、サツキ・ハートフィールドの振るう薙刀《朧月》が黄金の弧を描き、部隊の精緻な連携を文字通り「物理的」な暴力で寸断し続けている。魔術師を殺すことに特化した彼らにとって、アーク・ジャマーの影響を微塵も受けず、音さえ置き去りにする踏み込みを見せるサツキは、計算外の「怪物」であった。彼の脳裏には、これまで数多の任務で積み上げてきた成功体験が過ったが、その全てが今、目の前の武人一人によって塗り替えられようとしていた。
さらに、彼らの逃走を決定づけたのは、背後に佇む「零番」の気配だった。暴走する魔力を自身の内側に繋ぎ止めたアレン・ヴァルグレイから放たれる殺意は、もはや心理的な威圧を超え、鼓膜を震わせる物理的な質量となって室内を圧迫していた。壁に掛けられた燭台の火が、その圧に耐えかねるように小刻みに揺らめいている。
「ジャマー停止! 離脱する!」
リーダーの短い号令と共に、部屋を満たしていた耳の奥を焼き切るような不快な高周波が、ぷつりと途絶えた。虚空が陽炎のように歪み、工作員たちの漆黒の身体が「魔力の隙間」へと吸い込まれるように消えていく。ヴァルゼン帝国が誇る隠密技術。それは、戦いよりも撤退においてその真価を発揮した。乱れた絨毯の上に、彼らが確かにそこにいたという証拠だけが、破片や擦り傷という形でわずかに残されていた。
「……はぁ……っ、はぁ……!」
敵が消え去ると同時に、別邸を支配していたどす黒い重圧が嘘のように霧散していった。リィナの鼻から流れていた鮮血が止まり、焦点の定まらなかった淡い青色の瞳に、ようやく生気が戻る。セリスの白い肌を毒蛇のように焼いていたどす黒い魔力紋も、降り積もった雪が春の陽光に溶けるように、静かに消滅していった。部屋を満たしていた圧迫感が引いていくにつれ、割れた調度品の破片が転がる音や、遠くで鳴く夜鳥の声までもが、ようやく耳に届くようになっていった。
「アレン、様……」
リィナが、喉の奥で震える声でその名を呼んだ。アレンは溢れ出していた漆黒の魔力を無理やり自身の深淵へとねじ伏せると、よろめきながら床に頽れる二人を抱き寄せた。
「リィナ……セリス……っ」
大きな手が、二人の華奢な背中を包み込む。その指先は、大切なものを失いかけた恐怖でまだ微かに震えていたが、力強く、そして壊れ物を扱うように優しかった。アレンは二人を己の胸に沈めるように守り、肺に残った全ての熱を吐き出すかのように、長く、深い安堵の息を漏らした。
「……二人とも……無事でよかった……」
それは、世界を滅ぼす「天災」としての冷徹な声ではなかった。たった一人の大切な家族を失う絶望に抗い、自らの「力」という呪いに打ち勝った、一人の青年の魂の叫びであった。彼の腕の中で、二人の体温がゆっくりと、しかし確かに戻っていくのが感じられた。
「はい……っ、はい、アレン様……!」
「ご心配を……おかけしましたわ……」
リィナがアレンの胸に顔を埋めて子供のように泣き出し、セリスがその広い肩に額を預けて安堵の吐息を漏らす。再び、三人の間で静かな、そしてこれまで以上に強固な魔力の循環が回り始めた。魂の誓約。そこには他者の介入を、あるいは理解さえも一切許さない、完成された「絶対の聖域」があった。淡い光が三人の輪郭をぼんやりと縁取り、まるで嵐が去った後の静けさそのものを形にしたかのような光景だった。
「…………」
その光景を、サツキはただ立ち尽くして見つめていた。手元には、敵を退けながらも血を吸うことのなかった白銀の薙刀《朧月》。工作員から二人を守り抜いたはずの武人の胸に、説明のつかない鋭い痛みが走った。荒い息を整えながらも、彼女の視線はどうしても、抱き合う三人の姿から離れなかった。
(私は……)
目の前で繰り広げられる、三人の絆。魔力で、魂で、直接繋がり合う、秘められた回路。自分は確かに、彼らの「剣」として、その命を守るために戦った。だが、戦いが終わった今、自分はあの温かな輪の中に入ることができない。サツキは、自身の震える拳をきつく握り締めた。胸を締め付けるのは、戦いの高揚感などではない。三人の間に流れる、自分だけが感知できない「繋がり」への、耐え難いほどの疎外感だった。薙刀を握る手のひらに滲む汗が、握力を強めるほどに冷たく感じられた。
その時、静まり返った廊下の奥から、静寂を切り裂くようなけたたましい足音が聞こえてきた。数十人規模の軍靴の響き。
「アレン殿! ご無事か!」
宮廷近衛兵たちが、抜かれた剣を月光に反射させながら、一気に部屋へと飛び込んできた。だが、すべては後手だった。結界が破られ、黒鋼の悪意が侵入し、凄惨な死闘が繰り広げられた後――敵が去り、静寂が戻ってから、彼らはようやくこの場に辿り着いたのだ。
「工作員は……敵はどこへ行った!」
近衛兵たちが狼狽しながら周囲を警戒する。だが、その動きには、守るべき「公国の至宝」を危険に晒したという、決定的な失態への焦りだけが滲んでいた。破られた扉、陥没した床、焼け焦げたカーテン。その惨状を目の当たりにした彼らの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
アレンは、ゆっくりと顔を上げた。二人を抱き寄せたまま、その背中だけが近衛兵たちに向けられている。
「……遅い」
短く、一切の温度を失った一言。その瞬間、部屋の空気が物理的に凍りついた。
アレンの身体から、再び漆黒の魔力圧が溢れ出した。それは熱を奪い、光を吸い込む、理外の闇。リィナとセリスを傷つけられたアレンの怒りは、もはや言葉を必要としなかった。彼の周囲に展開された無属性魔力は、触れるものすべてを圧殺する「質量」へと変わり、室内の高級な調度品をミシリと軋ませる。壁に掛けられた鏡の表面に、細かな亀裂が音もなく走った。
「ひっ……!?」
先頭にいた近衛兵の一人が、悲鳴にも似た息を漏らし、尻餅をついた。彼らは公国でも選りすぐりの精鋭だ。だが、目の前の男から放たれる圧倒的な「死」の気配を前に、指先一つ動かすことさえできなくなる。握りしめた剣の切っ先が、抑えようもなく小刻みに震え、鞘に当たって小さな金属音を立て続けていた。
そこに存在したのは、戦術や剣技で対抗できる「個人」ではなかった。抗いようのない暴風や巨大な地震と同じ――「天災」そのものが、人の形をしてそこに鎮座していた。アレンの漆黒の魔力はさらに密度を増し、兵士たちが握る剣がカタカタと音を立てて震え始めた。近づくことさえ、いや、同じ空間で息をすることさえ、自身の命を削る行為に等しいと感じさせるほどの拒絶。冷たい重圧が肌を押し、呼吸そのものが凍りついていくかのような錯覚に、誰もが飲み込まれていった。
「……下がれ。これ以上、俺の視界に入るな」
アレンの静かな通告が、鼓膜ではなく、彼らの魂に直接響き渡った。漆黒の魔力に塗りつぶされた部屋は、かつてない「天災の静寂」に支配されていた。
近衛兵たちは、ただ青ざめた顔で、震えながら立ち尽くすしかなかった。彼らが守るべき公女王の盾は、今、自らの怒りによって、世界そのものを拒絶する絶対的な「壁」と化していたのである。誰一人として言葉を発することができぬまま、時間だけが凍りついたように過ぎていった。破られた扉の向こうから吹き込む夜風だけが、この異様な静寂の中で唯一動くものだった。
その冷たい風は、焼け焦げた絨毯の匂いと、まだ収まりきらない緊張の残滓を乗せて、静かに部屋の中を漂い続けていた。誰の目にも見えぬところで、次の嵐の予兆が、既に胎動を始めていることに、この場の誰もまだ気づいてはいなかった。




