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漆黒の隠密装備を纏った工作員が、音もなく床を滑るように間合いを詰めた。その手にある短剣は、月光を吸い込むような不気味な黒光りを放っている。標的は、魔力循環の逆流によって喉元を鮮血で染め、床に頽れる無防備なリィナ・フェルウェン。死の冷気が彼女の銀髪を微かに揺らしたその刹那、部屋の空気を物理的に押し潰すような、地を這う咆哮が響き渡った。
「――が、あああああっ!!」
アレン・ヴァルグレイの喉から、獣じみた叫びが漏れる。内側から内臓を焼き焦がす指数関数的な魔力の奔流。帝国の放った『アーク・ジャマー』が、彼と誓導者たちを繋ぐ「魔力の架け橋」を執拗に叩き、神経を一本ずつ引き抜くような激痛を与え続けている。視界は真っ赤に染まり、理性の境界線が今にも崩壊しようとしていた。
だが、愛おしい者たちの死が目前に迫ったとき、アレンという「理外の怪物」の中で、本能をも超越した意志が爆発した。彼は全身の血管が破裂せんばかりの魔力圧を強引に自身の内側へと繋ぎ止め、震える右手を伸ばした。
その指先が、苦悶に喘ぐリィナの肩に触れる。
「――っ」
触れた瞬間。アレンの脳内を埋め尽くしていた魔力の不協和音が、リィナという「器」との物理的な接触を介して、一瞬だけ本来の調律を取り戻した。逆流していた魔力が凪ぎ、漆黒の瞳に「No.0」としての冷徹な理性が戻る。リィナとの誓約回路が、激痛を上書きする唯一の「正気」の拠り所となったのだ。指先から伝わる体温、微かに震える肩の感触。それだけが、崩れかけた意識を現実へと繋ぎ止める錨だった。
アレンはリィナの肩を強く握りしめ、背後で立ち尽くすサツキ・ハートフィールドを射抜くような眼光で見据えた。
「……サツキ……リィナとセリスを……守れ……!」
それは懇願ではなく、己の半身としての「剣」に全てを託した、絶対的な信頼を伴う王命であった。掠れた声の奥に滲む必死さが、サツキの背筋を凍らせると同時に、彼女の内に眠っていた武人としての本能を目覚めさせた。
「はいっ!」
サツキの身体が、思考より早く弾かれた。彼女は背負っていた家伝の魔導薙刀《朧月》を、刹那の速さで引き抜く。鞘走りの澄んだ音が、黒い魔力に満ちた部屋の中で、場違いなほど清らかに響いた。
キンッ、という硬質な音が寝室に響いた。リィナの喉元まで数センチに迫っていた工作員の短剣が、薙刀の石突によって強引に弾き飛ばされる。衝撃が柄を通してサツキの掌に伝わり、その痺れるような手応えに、彼女は自身がまだ「戦える」ことを確信した。
「なっ……なんだ、この踏み込みは……!? 魔力反応がない……いや、ジャマーが効いていないのか!?」
工作員が驚愕の声を漏らす。ヴァルゼン帝国の英知が結集された『アーク・ジャマー』は、確かにこの部屋を包み込み、アレンたち三人の魔力循環を地獄へと変えていた。だが、サツキ・ハートフィールドはその「回路」の外側にいる存在だ。帝国の計算にとって、彼女は「護衛の兵士」にすら数えられていない、ただの同行者に過ぎなかった。
(魔力が使える……身体も動く。……私だけが、今、アレン様の盾になれる!)
サツキは自身の内側に眠る風属性魔力を練り上げた。アレンたちが味わっている「魔力のノイズ」は、サツキにとっては単なる不快な高周波の環境音に過ぎない。誓約という回路を持たぬ彼女の身体には、帝国の兵器が狙う「継ぎ目」そのものが存在しなかった。
「二十六階層での屈辱……ここで返させていただきます!」
サツキは《朧月》の柄を短く、極めてタイトに持ち替えた。王族用の別邸とはいえ、寝室は長大な薙刀を振り回すには適さない。天井は低く、家具は所狭しと配置されている。しかし、彼女は迷宮深層で「武の無力」を味わい、そこから這い上がってきた武人だ。あの屈辱の記憶が、今この瞬間の彼女の踏み込みを、これまで以上に鋭く研ぎ澄ませていた。
狭い室内での戦闘における最適解。彼女は円を描くような大振りを一切封印し、石突による打撃と、槍の如き鋭い刺突を組み合わせた近接格闘術へとシフトした。
「左だ! 二人来るぞ!」
リィナの肩を支え、膝をついたままのアレンから鋭い指示が飛ぶ。声は掠れているが、その戦況把握能力は「天災」そのものだ。理外の魔力に精神を焼かれながらも、彼の五感は依然として研ぎ澄まされ、室内に潜む影の一つ一つを正確に捉え続けていた。
「承知っ!」
サツキは視認するよりも早く、身体を反転させた。天井の低さを考慮し、薙刀を自身の体軸に沿わせるように保持しながら、死角から忍び寄った工作員の鳩尾へ石突を叩き込む。
ドシュッ、という重苦しい衝撃音。肺の中の空気を強制的に排出させられた工作員が、壁まで吹き飛んで沈黙した。壁掛けの絵画が衝撃で傾ぎ、額縁の隅がわずかに軋んだ音を立てる。
「三人目が十時方向、ベッドの影に潜んでいる。……セリスを狙っているぞ」
アレンの言葉が、サツキの脳内へダイレクトに突き刺さる。かつて晩餐会でアレンが指示した「俺へ叩き込め」の逆――誓約を結んでいないサツキに対しては、アレンの強靭な意志と、武人同士の「気配の読み」が共鳴し、声以上の情報密度となって彼女に伝わっていた。言葉を介さぬその感覚の連携に、サツキ自身も驚きを禁じ得なかった。
サツキは地を蹴った。踏み込みの衝撃で高価な絨毯が裂け、床板がメキメキと悲鳴を上げる。彼女はあえて魔術による強化を最小限に留め、肉体の重心移動だけで爆発的な加速を生み出した。
「そこですわ……っ、サツキ様!」
壁際で魔力過負荷に耐えるセリスが、震える指先でベッドの影を指し示した。工作員がセリスにトドメを刺そうと躍り出た瞬間、サツキの放った《風穿閃》が空気を焼き切った。
薙刀の刃先から放たれた極細の真空波。それは工作員の右腕を正確に貫き、保持していた短剣を粉々に砕く。破片が石床に散り、微かな金属音を残して転がった。
「ぐあああっ!? バカな、この出力……なぜジャマーの影響を受けない!」
工作員たちは狼狽し、互いに顔を見合わせた。彼らの戦術は、アーク・ジャマーで魔術師の神経を焼き、抵抗不能な状態で処理することに特化していた。だが、目の前で踊る茶系のポニーテールの女性は、魔術師の常識を超えた「武」の速度と、妨害を無視した「魔術」を同時に行使している。
「……計算違い、でしたね」
サツキの瞳が、峻烈な武人の光を宿す。彼女は薙刀を再び中段に構え直すと、自身の呼吸をアレンの苦悶の拍動に同期させた。その呼吸のリズムは、いつしか、彼女の内で燃える決意そのものと重なっていた。
(私は……あの二人のように、魔力を受け止める『器』にはなれないのかもしれない。けれど……降りかかる刃を弾き飛ばす『鋼の壁』になら、今すぐになれる!)
胸の奥で、幾夜も一人で研鑽を重ねながら自覚した「誓願」が激しく脈打つ。アレンの苦痛を分かち合えないのなら、せめて彼が苦しんでいる間に、その聖域を侵そうとする全ての害虫を根絶やしにする。それが、サツキ・ハートフィールドが選んだ「隣に立つ資格」の証明であった。
工作員のリーダー格が、腰のホルスターから魔導拳銃を抜き放とうとした。しかし、その指がトリガーにかかるよりも速く、サツキの《朧月》が黄金の弧を描いた。
「《風刃横陣》 ── 最小出力!」
彼女は室内を破壊せぬよう、魔力の範囲を極限まで絞り込んだ。目に見えぬ風の刃が工作員の足を払い、体勢を崩したところへ、間髪入れずに踏み込む。一七二センチのしなやかな肢体が、バネのようにしなり、工作員の胸部へ掌打を叩き込んだ。
「が……はっ……」
物理的な衝撃と、僅かに混ぜられた土属性の重圧魔術。工作員は別邸の重厚な扉を突き破り、廊下へと転がり出た。破られた木片が床に散らばり、廊下からわずかな冷気が室内へと流れ込んできた。
「……サツキ、前だ。三歩、そのまま凪げ」
アレンの声に、もはや迷いはなかった。彼はリィナの魔力を吸い上げ、循環の不協和音を自身の精神力で強引に上書きし始めていた。アレンが「まとも」でいられる時間は、そう長くはない。だが、サツキという確かな「剣」を得たことで、彼は守勢から攻勢へと意識を切り替えた。
「おおおおおおっ!」
サツキはアレンの指示通り、最短の踏み込みで空間を制圧した。残された工作員たちが放つ殺気のベクトル、床を蹴る足音の残響、それら全てがアレンの洞察というフィルターを通してサツキの五感に流れ込む。まるで自分の身体の延長のように、見えないはずの敵の位置が輪郭を持って浮かび上がってくる感覚に、彼女自身が驚きを禁じ得なかった。
薙刀の刃が、不快な高周波を切り裂くように奔った。魔術師を殺すために研ぎ澄まされた帝国の精鋭たちが、一人の「武人」の前に、ただの案山子のように次々と伏せられていく。乾いた打撃音、短い呻き、崩れ落ちる衣擦れの音だけが、部屋の中に規則正しく積み重なっていった。
そこには、もはや「器」になれないと嘆く女性の姿はなかった。最強の魔術師に守るべき背中を預けられた、世界で唯一の武人の証明。
アーク・ジャマーの不協和音に満ちた地獄の中で、サツキの振るう《朧月》だけが、澄み渡るような「鋼の音」を響かせていた。主の信頼に応え、大切な者を守り抜くという純粋な意志。その輝きは、漆黒の魔力に塗りつぶされた寝室の中で、唯一の希望の光となっていた。窓の外では夜がなお深く沈み、破られた扉の隙間から、冷たい夜気だけが静かに流れ込み続けていた。




