22-1
深夜のガルディア公国宮殿別邸。 静寂が支配するはずの廊下を、どす黒い熱気が侵食していた。
深夜の修練を終えたサツキ・ハートフィールドは自室へ戻るその足が、不意に止まった。理由は言葉にできない。ただ、武人として鍛え抜かれた五感の奥、皮膚の下を這うようにして、得体の知れない悪寒が背筋を這い上ったのだ。視線の先――アレンの寝室へと続く重厚な扉。そこから漏れ出す気配は、これまで彼女が知るどんな戦場の覇気とも異なっていた。
迷宮の深層で浴びせられた守護獣の圧、帝国特使団を凍りつかせた威圧、そのいずれとも似て非なるもの。それは何かを破壊するための力ではなく、内側から何かを蝕み、押し潰そうとする力だった。サツキの喉が、無意識に唾を飲み込む。指先が震え、薙刀の柄にかけた手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
「アレン、様……?」
呼びかけへの返答はない。代わりに、扉の隙間から漏れ出す空気そのものが、明らかに常軌を逸した密度を帯びていることに気づく。廊下の魔導灯が、その圧力に押されるようにわずかに明滅した。恐怖よりも、扉の向こうで起きている「何か」への戦慄が勝った。震える指先がドアノブにかかり、乾いた金属音とともに扉が開かれる。
視界を塗りつぶしたのは、この世のものとは思えない漆黒の奔流だった。
「な……っ!?」
肺の中の空気が一瞬で押し出される。部屋の中央、床に膝をついたアレンの周囲では、溢れ出す魔力がもはや陽炎の域を超え、触れるものすべてを物理的に押し潰し、焦がす「黒い質量」へと変貌していた。頑丈な床板がメキメキと軋みながら陥没し、窓辺のカーテンの端が、摩擦だけで青白い火を上げている。空気が重い。呼吸のたびに肺の奥に鈍い抵抗を覚えるほどの圧が、部屋全体を満たしていた。
だが、サツキの目を釘付けにしたのは、その地獄の中心よりも、傍らに頽れる二人の誓導者の姿だった。
「リィナ様! セリス様!」
叫びながら踏み込む。リィナは床に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら、鼻から鮮血を一筋滴らせていた。顔色は死人のように青白く、内側から軋む激痛に耐えているのか、声を発することさえできず、ただ視線だけが虚空を彷徨っている。壁に背を預けたセリスもまた同様に、その白い肌の上を、どす黒い魔力の紋様が毒蛇のように這い回っていた。
本来ならば、二人を守り、主の過剰な魔力を受け止め逃がすはずの回路――魔力循環誓約。それが今、何か外側からの悪意によって捻じ曲げられ、血管の内側を焼き焦がす地獄の逆流へと成り果てていることを、サツキは知る由もなかった。ただ、目の前で起きている異常だけが、疑いようもなく彼女の理解を超えていた。
「来るな……っ! サツキ、離れろ……っ!」
顔を上げたアレンの瞳は真っ赤に充血し、口の端から、内臓が焼き切られたかのような黒みを帯びた血が滲んでいた。彼が己を抑えようと魔力を引き戻せば戻すほど、誓約で直結した二人への循環は逆に狂い、その細い身体を内側から食い破ろうとする。守るべき者たちが、自分自身の力によって壊されていく――その絶望的な予感が、アレンの精神を今にも崩壊させようとしていた。
「嫌です……! こんなこと、放っておけるはずがありません!」
サツキの声は、恐怖ではなく、もっと別の強い感情に押し出されて響いた。酸素さえも圧し潰されるほどの死の魔力圧に抗いながら、彼女は一歩を踏み出す。魔術の通わぬ武の肉体だけが、最強の騎士団を内側から食い破る理外の暴走という、地獄の光景の中へと踏み込んでいった。




