21-15
ガルディア公国、宮殿別邸。公女王エリシアの配慮によって与えられたその場所は、本来、世界で最も安全な聖域であるはずだった。だが、その平穏の裏側で、帝国の毒が確実に回っていた。
別邸を取り囲む深夜の森、警備兵の死角。ヴァルゼン帝国軍特科工作部隊の数名が、草木に紛れて異様な形状のポータブル中継端末を設置していた。彼らが操作する端末の画面には、数千キロ離れた帝都の兵器開発局から送られてくる膨大な出力データが、青白い光となって流れている。木々の隙間から漏れる僅かな月光が、彼らの黒装束の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……同期、最終段階。防魔結界の周波数を開発局のメイン出力に固定した。これより、帝都からの干渉波を『架け橋(魔力循環)』へ指向照射する」
工作員の低い囁き。彼らの役割は、アレン本人の探知に引っかかるような大出力を出すことではない。帝国から放たれる「楔」を、標的であるリィナたちの魔力波長へと正確に導くための「精密な照準器」に徹することであった。端末のディスプレイに表示された数値が、目まぐるしく更新されていく。
「ジャマー、出力安定。……怪物を、その檻ごと爆発させる」
同じ頃、別邸の主寝室。アレンは深い眠りの中にいたが、その表情はこれまでにない苦悶に歪んでいた。迷宮深層で浴びた不協和音と、指数関数的に増大し続ける魔力。それらが彼の精神の境界線を削り、最悪の悪夢を見せていた。
(……ああ、またか)
夢の中で、アレンは漆黒の魔力の海に沈んでいた。助けようと伸ばした彼の手は、光速の刃となって、守るべきリィナとセリスの喉を無慈悲に焼き切っていく。「守りたい」という願いが、自分自身の「力」によって塵芥へと変えられる。その絶望が、アレンの精神を黒く塗りつぶしていった。夢の中の彼は、声にならない叫びを上げながら、何度も何度も同じ光景を繰り返し見せられていた。
「──っ、が……っ!」
現実の寝室で、アレンの喉から掠れた悲鳴が漏れる。額には脂汗が滲み、握りしめたシーツが指の形にくしゃりと歪んだ。と同時に、別邸全体を揺るがすような重苦しい魔力圧が、物理的な質量を伴って爆発的に膨れ上がった。壁に掛けられた絵画の額縁が、微かに軋みを上げる。
その時、静まり返った廊下には、一人の女性が立ち尽くしていた。深夜の修練を終え、別邸の自室に戻る途中だったサツキ・ハートフィールド。彼女の足が、アレンの部屋の扉の前で止まった。汗の乾ききらない頬に、廊下の冷気が刺すように触れる。
「な……に、これ……?」
武人としての鋭敏な感覚が、肌を刺すような戦慄を捉えた。扉の隙間から漏れ出してくるのは、迷宮で見せた無敵の覇気などではない。
それは、アレンがこれまでに葬ってきた数多の強者たちの怨嗟や、独りで抱え込んできた途方もない孤独の記憶が混ざり合った、冷たく重い「絶望」の色を帯びた魔力だった。廊下の魔導灯が、その圧力にわずかに明滅している。
サツキは恐怖に身体を強張らせながらも、その魔力の奥底にある、今にも壊れてしまいそうなアレンの「悲鳴」を感じ取っていた。彼女の手が、無意識のうちに胸元をきつく握りしめていた。
(アレン様……。あなたは、こんなにも冷たくて、暗い場所に、たった一人でいたのですか……?)
怖い、のではない。抱きしめたい。サツキの胸の奥で、自身の「武」を捧げることで彼の苦痛を分かち合いたいという、峻烈な「誓願」が激しく脈打った。これまで深層で味わった敗北も、アレンから告げられた拒絶の言葉も、この瞬間、彼女の胸の中では小さなものへと変わっていた。ただ、扉の向こうで苦しんでいる男のもとへ、駆け寄りたいという衝動だけが、彼女を突き動かしていた。
「アレン、様……!」
サツキが震える手を扉のノブへと伸ばした、その刹那。屋外で帝国の「中継アンテナ」が不気味に赤く明滅し、別邸を包む強固な防魔結界が、内側からの循環崩壊によってガラス細工のように不吉な音を立てて軋んだ。
その軋みは、まるで別邸そのものが悲鳴を上げているかのようだった。空気の密度が一瞬にして変化し、廊下を漂う魔導灯の光が、明滅を繰り返しながら弱々しく揺らめく。サツキは伸ばしかけた手を止め、全身の産毛が逆立つような感覚に襲われた。何かが、決定的に狂い始めている――その予感が、彼女の背筋を冷たく駆け抜けていった。
最強の魔軌士が迎える、初めての「内側からの崩壊」。理外の守護者を巡る物語は、静寂を切り裂く爆音と共に、次なる動乱へと突き進んでいく。




