21-13
「──九百、九十八。九百、九十九……千」
ガルディア公国宮殿、深夜の修練場。凍てつくような夜気を切り裂き、薙刀《朧月》が鈍い風切り音を響かせていた。サツキ・ハートフィールドの茶系のポニーテールは、激しい動作に合わせて夜の闇に跳ね、その額からは大粒の汗が石床へと滴り落ちている。月明かりだけが照らす修練場には、彼女の呼吸と、刃が空を裂く音だけが、規則正しく響き続けていた。
だが、その刃に魔術的な輝きは一切ない。先日の迷宮遠征、三十階層の守護獣が放った圧倒的な魔力圧の残滓が、未だにサツキの心と獲物を縛り付けていた。長い刻を越えて研ぎ澄まされたはずの家伝の魔導薙刀は、深層の「理」の前ではただの重い鉄の棒へと成り果て、彼女の腕に痺れるような絶望感だけを伝えてくる。
(……無理だ、と。アレン様は仰った)
脳裏に、あの冷徹な、そして悲鳴のような宣告がリフレインする。
「お前にはこれ以上は無理だ」
その言葉は、武人としてのサツキの誇りを粉々に砕いただけでなく、彼女の魂を深い疎外感の底へと突き落としていた。何度素振りを重ねても、その言葉の重みは薄れることなく、むしろ振るうたびに刃のように彼女の胸を突いてくる。
サツキは荒い呼吸を整えようと膝を突き、震える指先で冷え切った《朧月》の柄を握りしめた。視線の先、深夜の闇の中に佇む別邸の灯りを見つめる。窓の奥に灯る淡い光が、彼女にとって、決して踏み込めない聖域の輪郭のように感じられた。
あそこには、アレンとリィナ、そしてセリスにしか許されない聖域がある。指数関数的に増大し、主の身を焼き焦がすほどの「理外」の魔力を、二人の誓導者が自らを『器』として差し出すことで受け止め、循環させる運命の輪。
サツキの脳裏に、深夜の廊下で目撃したアレンの苦悶の表情が浮かぶ。彼は世界最強の『零』として君臨しながら、その内側では制御不能な力に精神を磨り潰され、孤独な激痛に耐え続けている。あの夜、扉の隙間から漏れ聞こえた呻き声を思い出すたび、サツキの胸は締め付けられるように痛んだ。
「……私は、あの二人のように『器』にすらなれないのか」
サツキの瞳から、一筋の涙が頬を伝い、石床に落ちた。彼女が求めているのは、もはや「戦力としての同行」だけではなかった。あのアレン・ヴァルグレイという男が、誰にも言えずに抱え込んでいる「理外の苦痛」。それを一欠片でもいい、自分の身を削ってでも分かち合う権利が欲しかった。
(私は……この人の背後を守る『絶対の地平』になりたいと願った。けれど……それだけでは、足りない。あなたの内側にある『地獄』にさえ、私は手が届かない……)
薙刀を振るう腕の筋肉が悲鳴を上げる。しかし、その肉体の痛みさえ、アレンが背負う孤独な激痛に比べれば、あまりにも軽いものに感じられた。彼女は再び構えを取り、闇に向かって刃を振り抜いた。風切り音が夜気を裂き、遠くの石壁にわずかな反響を残す。
(もう一度……もう一度だけ)
自分に言い聞かせるように、サツキは薙刀を振り続けた。だが、いくら回数を重ねても、腕に伝わる感触は、深層で味わったあの喪失感の記憶を消し去ってはくれない。むしろ振れば振るほど、自分の武技がいかに小さなものであるかを、思い知らされるだけだった。
「……アレン、様……」
震える唇から漏れた声は、深夜の静寂に吸い込まれて消えた。サツキ・ハートフィールドは、涙を堪えるように強く拳を握り締め、己の無力さと、戦友としての敬意を遥かに超えて肥大してしまった「恋心」の鋭い痛みを、月明かりの下で独り噛み締めていた。
修練場を囲む石塀の向こうから、秋の夜風が吹き抜けていく。その冷たさは、彼女の火照った肌にはむしろ心地よく感じられた。だが、その風がどれほど吹き抜けようとも、胸の奥に渦巻く痛みだけは、少しも和らぐことがなかった。
サツキは薙刀を納めることなく、しばらくその場に膝をついたまま、動かずにいた。月の光が、彼女の頬に伝う涙の跡を、静かに照らし出していた。別邸の窓に灯る光は、いつまでも変わらぬ淡さで、夜の闇の中に浮かび続けている。その光の届かない場所で、サツキはただ一人、己の無力さと向き合い続けていた。
やがて彼女は、自身の内側で燃え上がる『地獄を半分分かち合いたい』という狂おしいほどの誓願を、震える指先へ、そして刃の先へと、静かに流し込んだ。 彼女の影は、月明かりの下で再び一点の揺らぎもない武の輪郭を取り戻していく。




