21-10
帝国の英雄ガルドが膝を屈した二十八階層という「壁」を、アレンたちは何ら感慨を抱くことなく踏み越えた。二十九階層、そして三十階層へ。そこはアレンたちにとっても足跡一つ存在しない、完全なる未踏破階層である。
大気に満ちる魔力のノイズは、もはや鼓膜を震わせる不協和音の領域を超えていた。空間そのものが物理的な質量を伴って歪み、視界の端々で現実が陽炎のように揺らめいている。リィナが展開する《空間隔絶結界》の内側にいながら、サツキはその圧倒的な「理」の格差に、心臓を直接握りつぶされるような錯覚を覚えていた。結界の膜を通して伝わる圧力は、これまでの階層とは比較にならないほど重く、彼女の呼吸を無意識のうちに浅くさせていた。
「……ここが、三十階層の防魔扉ですわね」
セリスの鋭い言葉と共に、巨大な石の扉が地響きを立てて開いた。その扉には、幾重にも古代機構の紋様が刻まれ、開かれる瞬間、内部から溢れ出す濃密な魔力が、周囲の空気を一段と重くした。広大なボス部屋の奥、深古水環宮の「三十階層の主」が、理外の魔力圧を放射しながら鎮座していた。その巨躯は水と古代金属が融合したような異形の姿をしており、関節部分から絶えず高圧の水蒸気を噴き出している。その存在感だけで空間が熱を帯び、結界の中にありながら帝国の随行員たちは、恐怖に耐えきれず石床に頽れた。
先頭を行くアレンの背中からは、先ほどよりも一層濃く、どす黒い陽炎のような魔力が立ち昇っている。指数関数的に増大し続ける魔力がもたらす内側からの激痛が、彼の精神を極限まで磨り潰し、その表情には周囲を威圧するような冷徹な焦燥が張り付いていた。彼はこめかみに指を当てたまま、しばらく無言でボスを見据えていた。
「……私が、行きます!」
サツキは、震える手で家伝の魔導薙刀《朧月》を引き抜いた。二十五階層踏破を経て得た自信、そしてアレンの隣に立つ武人として、その背中を少しでも守りたいという烈しい渇望。彼女は、これまでの人生で培ったすべてを賭け、ボスの魔力圏へと躍り出た。
その踏み込みは完璧だった。首席として磨き上げ、迷宮の「理」を理解し始めた彼女の、魂を乗せた最速の刺突。石床を蹴る足音は一切の無駄を排し、その動きは風のように滑らかだった。だが──。
「なっ……!?」
刃がボスの纏う濃密な魔力のヴェールに触れた刹那、サツキの指先から、悍ましいまでの「喪失感」が伝わってきた。手の中で確かに鼓動していた《朧月》の魔力振動が、音もなく、完全に沈黙したのだ。
それは物理的な破壊ではない。ボスの放つ圧倒的な魔力密度が、外界から薙刀の繊細な魔導回路を無理やり上書きし、術式そのものを「魔力的に凍結」させたのだ。使い慣れた右腕の延長であったはずの獲物が、突然、ただの重い「鉄の棒」へと成り果て、他人の肉体になったかのような絶望的な違和感を彼女の掌に刻んだ。
サツキの渾身の一撃は、魔術的な鋭さを失い、ボスの魔力障壁に触れることさえできず無様に弾き飛ばされた。尻餅をつき、泥を舐める。石床に叩きつけられた衝撃が、彼女の背骨に鈍い痛みとして走った。二十五階層踏破で積み上げてきたはずの自信が、深層の理という名の、抗いようのない格差の前に砕け散っていく。
「……下がっていろ。お前の役目ではない」
剃刀のように冷徹な声が降った。アレン・ヴァルグレイが、無造作な足取りでサツキの横を通り抜けた。彼の瞳にはサツキへの慈悲も、主に対する憤怒もない。ただ、次にすべきことへの、揺るぎない意志だけがそこにあった。
(……っ、早く終わらせろ。これ以上この場所に留まれば、俺の魔力が暴走し……全員を飲み込んでしまう)
内側から暴れ狂う魔力の奔流。その激痛による焦燥感だけが、アレンを動かしていた。彼は武器を抜くことさえせず、ただ、右手の指先をボスへと向けた。その仕草には、これから起こることへの緊張も気負いも、一切見受けられなかった。
「──《光束魔術》」
術式の展開はない。詠唱も、魔術陣の輝きすらも存在しない。ただ、指先から放たれた極細の光の線が、空間を焼き切りながらボスの核を貫いた。
ボスの巨躯が、悲鳴を上げる間もなく光の中に溶け、消滅していく。膨大な質量を持っていたはずの守護獣が、まるで最初から存在しなかったかのように、光の粒子となって虚空に散っていった。人類の限界を「指先一つ」で蹂躙した理外の暴力に、部屋全体が静まり返った。
サツキは、光の残滓の中で直立するアレンの背中を見つめ、涙さえ出ないほどの疎外感に震えた。そこは、どれほど研鑽を積もうとも、決して立ち入ることの許されない聖域。アレンという名の深淵が、彼女の前に、あまりにも残酷な「境界線」を引いていた。
床に散らばる光の粒子が、静かに消えていく。帝国の随行員たちは、いまだ石床に伏せたまま、目の前で起きた出来事を理解できずにいた。誰かが小さく啜り泣く声が、結界の中に微かに響いていた。それは恐怖からなのか、あるいは自分たちの積み上げてきたものの無意味さを悟った故の涙なのか、本人たちにさえ判然としないようだった。
リィナは結界を維持しながら、サツキの震える背中をそっと見つめていた。彼女の淡い青の瞳には、誓導者としての痛みが滲んでいる。だが、今この瞬間、その痛みを言葉にして分かち合う余裕は、誰にもなかった。セリスもまた、レイピアの柄を握りしめたまま、崩れ落ちたサツキへと視線を向けていたが、かける言葉を見つけられずにいた。
アレンは既に興味を失ったように、部屋の奥へと視線を移していた。その背中には、これから先へと進むための、揺るぎない意志だけが刻まれていた。三十階層の静寂が、まだ消えきらぬ光の残滓とともに、四人の間に重く横たわっていた。




