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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第21章:強国たちの来訪

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21-9

石造りの冷たい階段を下りきった先。そこは、ヴァルゼン帝国の誇りが砂となって崩れ去る場所であった。


「ここが……二十八階層……」


随行員の一人が、歯をガチガチと鳴らしながら震える声で呟いた。帝都の英雄、特級魔軌士No.10ガルド・エルネストが、自国の迷宮『帝国魔導要塞』において幾度もの挑戦を阻まれ、ついには歩みを止めた絶望の壁。迷宮の種類こそ違えど、階層ごとの難度が同等とされるこの「二十八階層」の空気は、既に人類が生存を許される領域を逸脱していた。


リィナが展開する《空間隔絶結界スペース・セパレーション》の外側では、視界が物理的に歪むほどの高密度魔力が渦巻いている。それはもはや静かな大気ではない。あらゆる術式構築を根源から掻き乱し、脳内の平衡感覚を直接引き裂くような、暴力的な「魔力のノイズ」の奔流であった。石壁のあちこちから滲み出す湿った冷気が、その異常な密度をさらに際立たせていた。随行員たちは、リィナが維持する淡い青色の光の膜に、命を繋ぎ止める唯一の拠り所として縋り付いていた。


「馬鹿な……。こんな、立っているだけで気が狂いそうな場所に、平然と……」


彼らの視線の先、結界の最前線をアレンが歩んでいた。その背中からは、最近の魔力増大に伴う苛立ちを体現したかのような、陽炎のごとき黒い魔力圧が絶えず漏れ出している。彼は深層の殺人的な不協和音さえも、その理外の存在感で力任せに切り捨てて前進を続けていた。彼の足取りに迷いはなく、まるでこの死地が単なる散歩道であるかのような自然さがあった。


「貴様……! アレン・ヴァルグレイ!」


結界の後方から、狂乱に近い怒鳴り声が響いた。帝国魔軌士No.52。恐怖と、格上への歪んだ対抗心に支配された男が、アレンの背中に向けて叫ぶ。


「我らを、帝国の精鋭を愚弄するのも大概にしろ! 貴様だけが動けるはずがない……! これはハッタリだ、何らかの隠蔽魔術に違いないッ!」


プライドが生存本能を上回った、致命的な瞬間であった。男はアレンへの対抗心を燃やし、リィナが必死に維持する結界の縁から、勢いよく外界へと踏み出した。


「──出るなと言ったはずだ」


アレンの、感情を削ぎ落とした低い声が響くのと、男の悲鳴が重なった。


「が、はっ……!? あ、あああ……っ!」


結界から一歩出た瞬間、防護を失った男の脳内へ、深層の魔力ノイズが物理的な衝撃となって叩きつけられた。術式の構築はおろか、視覚や聴覚といった五感のすべてが不協和音に掻き乱され、男の感覚は一瞬で狂わされた。彼は酸素の代わりに火を吸い込んだような錯覚に陥り、その場に膝をつく。


その隙を、深層の「影」が逃すはずもなかった。


──ドシュッ。


石壁の闇から、深層魔獣が超高速の死神となって躍り出た。感覚を完全に狂わされたNo.52には、その影の動きに反応することさえ許されない。回避も、防御術式の展開も間に合わぬまま、魔獣の鉤爪が男の頭部を正確に捉えた。熟した果実が潰れるような嫌な音が響き、帝国の精鋭と呼ばれた男は、一撃でただの肉塊へと変わり果てた。


「…………っ!」


サツキは悲鳴を上げることすら忘れ、肺の奥を直接掴まれたような不快感に、全身の筋肉を強張らせて立ち尽くした。 彼女の視線は石床に広がる赤黒い染みに釘付けになり、指先の感覚は冬の湖底に沈んだかのように冷たく消失していた。


アレンは振り返ることも、指先一つ動かすこともしなかった。ただ、冷徹な黒い瞳で、足元の石畳に広がる鮮血を見下ろしている。最近の魔力過負荷による苦痛が、彼の精神から他者への同情を削ぎ取っていた。その横顔には、怒りも悲しみも浮かんでいない。ただ、静かな事実確認だけがそこにあった。


「ア、アレン様……助け……!」


リィナの悲痛な懇願さえ、彼は剃刀のような言葉で切り捨てた。


「警告を一度しか言わないのは、俺の慈悲だ。……従えない奴を助ける義理はない。俺が守るのは、誓約者(お前たち)だけだ」


徹底した合理性と、無意味な死への究極の無関心。サツキは、その横顔に底知れぬ深淵を見た。アレンは優しいのではない。彼は、自分の「内側」にある大切なものを守り抜くため、それ以外の全てを同情の余地なく切り捨てていく「魔王」そのものであった。


残された随行員たちは、恐怖のあまり声も出せずに互いの体を支え合っていた。誰もが、目の前で起きた出来事を、まだ現実として受け止めきれずにいるようだった。一人の若い観測員が、震える手で自分の口を押さえ、込み上げてくる嘔吐感を必死に堪えている。その光景を、リィナは痛ましげに見つめながらも、結界の維持に全神経を集中させ続けていた。


セリスもまた、レイピアの柄を強く握りしめたまま、動くことができずにいた。彼女の脳裏には、これまでアレンが見せてきた数々の「優しさ」の記憶が過っていた。エルンストの一件で見せた静かな理解、宮殿の廊下で自分を庇った時の温もり。だが今、目の前にいる男は、そのどちらとも異なる、もっと剥き出しの「理」そのものだった。


(アレン様は……本当に、私たちだけを守るために生きていらっしゃるのですわね)


その事実は、セリスの胸に、誇らしさと同時に、言いようのない冷たさを刻み込んでいた。


帝国の限界点、二十八階層。そこはサツキが抱いていた「武人としての自負」すらも、鳴り止まぬ魔力のノイズに焼かれ、虚しく消え去っていく絶望の地であった。彼女は震える足を叱咤しながら、結界の中で立ち上がった。倒れた仲間の亡骸を見下ろすことしかできない自分の無力さが、これまでのどんな敗北よりも深く、彼女の心に刻み込まれていった。


一行はしばらくの間、その場に立ち尽くしたまま動けずにいた。石壁を伝う不協和音だけが、絶え間なく彼らの鼓膜を震わせ続けている。やがてアレンが、何事もなかったかのように再び足を踏み出した。その背中を追うことしかできない自分たちの立場を、サツキは痛いほどに思い知らされていた。


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