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アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第21章:強国たちの来訪

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21-8

迷宮「深古水環宮」の深部へと続く石の階段を、軍靴の音が虚しく叩いていた。二十五階層までは、アレンたちにとって勝手知ったる散歩道に過ぎない。だが、この日の行軍を支配していたのは、かつてない重苦しい沈黙だった。石壁を伝う水音と、遠くで鳴り響く古代機構の駆動音だけが、一行の足音に規則正しく重なっていく。


先頭を歩くアレンの広い背中からは、陽炎のような黒い魔力圧が絶え間なく漏れ出し、背後の空気を物理的に歪ませている。アレンはこめかみを指で強く押さえ、時折、苛立たしげに鼻を鳴らした。指数関数的に増大し続ける魔力は、今や彼自身の制御を蝕み、内側から精神を焼き焦がすような激痛へと変わっていた。その歩調はいつもと変わらぬ静けさを保ちながらも、纏う空気だけが、明らかに以前とは異質な重みを帯びていた。


「……アレン様、あまり無理をなさらないでください」


リィナが気遣うように声をかけるが、アレンは振り返ることさえしなかった。


「……分かっている。それより、後ろをしっかり見ていろ」


その声は、かつての静謐な凪を失い、剃刀のように鋭く研がれている。隣を歩くセリスも、アレンの変調を敏感に察知し、青色の瞳に痛ましさを沈めて沈黙を守った。彼女はレイピアの柄に添えた指先を、無意識のうちに強く握りしめていた。


そして、運命の境界線。二十六階層の安全地帯を抜けた瞬間、世界の変質がサツキを襲った。


「──っ、ぐ……っ!?」


一歩踏み出した刹那、鼓膜を直接引き裂くような「魔力の咆哮」がサツキの脳内を突き抜けた。それは音ではない。大気に満ちる魔力粒子が異常なまでの密度で飽和し、あらゆる術式や気配をかき乱す巨大な「ノイズ」と化しているのだ。周囲の石壁がわずかに揺らいで見えるほど、空間そのものが歪んでいるように感じられた。


武人として研ぎ澄まされたサツキの五感は、逆にその不協和音を過敏に拾い上げ、平衡感覚を奪っていく。彼女の手にある愛槍《朧月おぼろづき》の魔力回路が、外界の干渉を受けてチリチリと不気味な火花を散らした。


(な……何、これ……!? 技が……魔力が、形にならない……!)


膝を折りそうになるサツキの視界の端で、帝国の観測員たちはさらに無様な姿を晒していた。彼らは自身の魔力波長を外界のノイズに同調させることさえできず、まるで高山病にかかった患者のように虚空を掻き抱き、石床を這いずり回っている。一人が嘔吐する気配に、別の一人が青ざめた顔で耳を塞ぎながら、それでも立ち上がろうと必死にもがいていた。


「……《空間隔絶結界スペース・セパレーション》」


リィナの凛とした声と共に、淡い青色のドーム状の光が一行を包み込んだ。結界が完成した瞬間、サツキの脳内を暴れまわっていた不協和音が遮断され、嘘のような静寂が戻った。彼女はようやく肺に酸素を送り込み、愛槍を杖代わりにして立ち上がった。額から流れ落ちる汗が、石床にいくつもの小さな染みを作っていく。


アレンが足を止め、肩越しに冷淡な視線を投げた。その漆黒の瞳には、かつてサツキを救った際の温もりは微塵も存在しない。


「サツキ。……言ったはずだ。足だけは引っ張るな、とな」


アレンの声は、結界の外の魔力圧よりも冷たくサツキの心臓を刺した。


「この結界の外は、お前たちのような『理』に従う者にとってはただの毒だ。一歩でも出れば、感覚を狂わされ、数秒で魔獣の餌食になるだろう」


「……申し訳、ありません……」


サツキは絞り出すように答えたが、アレンは既に興味を失ったように前方を向き、再び歩き出していた。その背中は、ほんの数刻前までサツキが抱いていた憧憬とは、まるで別種の何かに見えた。


サツキは自身の震える拳を見つめ、屈辱と困惑に唇を噛んだ。二十五階層までの自信は、この圧倒的な「魔力の壁」を前にして塵芥に等しいと思い知らされた。ここは、武技や根性などという言葉が、何の防波堤にもならない絶望の地平。石壁に反射する結界の淡い光だけが、彼女を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。


そして、自分たちを拒絶する深層の魔力を、「存在しないもの」として切り捨てて突き進むアレンの背中は、もはや同じ人類のそれには見えなかった。彼の足取りには一切の迷いがなく、むしろこの場所こそが本来の彼の生活圏であるかのような、恐ろしいほどの自然さがあった。


(アレン様……。あなたは、一人でこんな場所を……?)


苛立ちを魔力として撒き散らしながら、それでも一歩も退かずに深淵を裂いていく姿。サツキは自身の胸を締め付ける正体不明の痛みを感じながら、リィナの淡い青い光にしがみつくようにして、重い一歩を踏み出した。結界の縁を歩くたびに、外側の魔力の唸りが、まるで獣の息遣いのように石壁を伝ってくる。


先を歩くセリスが、時折振り返ってサツキの様子を確かめていた。その青色の瞳には、静かな気遣いが滲んでいた。


行軍は淡々と続いた。結界の中を進む一行の足音だけが、規則正しく石の通路に響いていく。帝国の随行員たちは、もはや威厳を保つ余裕すら失い、互いに支え合いながらよろよろと後をついてくるばかりだった。彼らの表情には、これまで抱いていた自国の軍事的優位への確信が、音を立てて崩れていく様が刻まれていた。


サツキは歩きながら、自身の掌に伝わってくる薙刀の不規則な微振動──外界のノイズに侵食されゆく獲物の悲鳴を、指先の痺れとして耐え忍んでいた。 彼女の呼吸は、無意識のうちに浅く、速くなっていく。

修理を終えたばかりのその刃が、今この瞬間だけは、まるで見知らぬ他人の道具のように感じられてならなかった。深層の理という名の壁が、彼女がこれまで積み上げてきたすべてを、静かに、しかし容赦なく試し始めていた。


通路の奥から、また新たな不協和音の波が押し寄せてくる。結界の膜が、その圧力にわずかに軋みを上げた。サツキは息を詰め、リィナの背に守られながら、ただ黙々と足を前へと運び続けた。


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