21-6
死の奔流が、すぐ背後にまで迫っていた。サツキは子供を強く抱きしめ、衝撃に備えて奥歯を噛みしめる。武器はない。防御魔術も、今の彼女の練度ではこの規模の暴走を止められない。灼熱の魔力が、サツキの髪を焼き、背中を飲み込もうとしたその瞬間――。
「――無茶をするな、と言っただろう」
低い、聞き慣れた声が耳元で響いた。サツキの視界が、漆黒の戦闘服を纏った一九二センチの巨躯によって覆われる。振り返る間もなく、その広い背中が視界いっぱいに立ちはだかっていた。アレンは回避も防御障壁の展開もせず、ただ無造作に右手を突き出した。
その掌が、暴走する高密度魔力に「直接」触れる。
「《衝撃制御》」
次の瞬間、大広間を震わせていた轟音が消失した。アレンの掌から放たれた理外の干渉波が、魔力の奔流を正面からねじ伏せる。物理的な破壊を一切伴わず、エネルギーのベクトルだけを完全に殺す「理外」の力。暴発した魔力は、アレンの指先を抜けることすら許されず、ただの霧となって霧散した。周囲を包んでいた熱気が急速に引き、代わりに焦げた空気の匂いだけが淡く残された。
会場を支配していた絶叫が、潮が引くように静まっていく。誰もが息を呑んだまま、目の前で起きた現象を理解できずに立ち尽くしていた。テーブルの脚が折れ、床に散らばったクリスタルの破片が、シャンデリアの光を受けて無数の小さな星のように瞬いている。
「あ……アレン、様……」
サツキは、アレンの逞しい左腕に抱き寄せられたまま、呆然と彼を見上げた。伝わってくる、確かな体温。鋼のように強靭で、それでいて驚くほどの安心感を与えるその胸板。彼女の腕の中で、抱きしめられていた子供が小さくしゃくり上げる声だけが、静まり返った会場に細く響いていた。
サツキは、自身の鼓動が、かつてないほど激しく跳ねるのを感じていた。それは、強者に対する武人としての敬意ではなかった。死の淵から救い出された安堵でも、共闘する戦友への信頼でもない。もっと単純で、もっと逃れがたい感情が、胸の奥から静かに、しかし確かに込み上げてくる。
(私……アレン様のこと……こんなに……)
一人の女性として、アレン・ヴァルグレイという男に惹かれている。サツキ・ハートフィールドは、自身の胸の奥に根を下ろした「恋心」を、初めて明確に自覚した。これまで幾度も戦場で背中を預け、その圧倒的な強さに武人としての敬意を抱いてきたはずだった。だが今、腕の中に伝わる体温は、そのどれとも違う種類の熱を、彼女の胸に灯していた。
アレンはサツキを離すと、冷徹な視線を事件の首謀者たちがいるはずの特使団へと向けた。その眼差しには、先ほどまでの温もりの欠片も残っていない。切り替わりの速さそのものが、彼という男の異質さを物語っていた。その背中は、サツキにとって、世界の何よりも大きく、そして愛おしく見えた。
暴走した魔力異常者は、即座に駆けつけた魔軌士局の局員たちによって拘束された。彼はもはや正気を失ったように虚ろな目をして、担架に運ばれていく間も、意味を成さない譫言を漏らし続けていた。大広間の喧騒は静まり、代わりに冷徹な政治の時間が流れ始める。
「我が国の晩餐会に、これほどの『時限爆弾』を持ち込まれるとは」
公女王エリシアの声は、氷のように冷たく会場に響いた。彼女は動揺した様子を微塵も見せず、割れたグラスの破片が散らばる床を一瞥すると、静かに近衛兵へ後片付けの指示を出していく。その毅然とした立ち居振る舞いは、国家元首としての矜持そのものだった。
魔力事故の責任は、管理不徹底を露呈させた迷宮三か国側にある。アレンが「素手」で被害を食い止めた事実は、ガルディア公国の武威を決定づけた。これにより、マップ開示を巡る交渉において、ガルディアは絶対的な外交的優位に立つ。特使団の面々は、互いに目を合わせることを避けるように、それぞれ気まずげに視線を逸らしていた。
「……任務継続だ。気を抜くな」
アレンは彫像のごとき不動の背筋を伸ばし、何事もなかったかのように命じた。その声に、サツキの肩がびくりと跳ねる。
「は、はいっ! 承知いたしました、アレン様!」
一七二センチの凛々しい武人の姿はどこへやら。サツキはアレンを直視できず、視線を泳がせながら、ぎこちない動作で周囲の警戒に戻る。抱きしめていた子供は既に、駆けつけた両親のもとへと引き渡されていた。母親が涙ながらにサツキへ深く頭を下げる姿を、彼女はどこか上の空で見送っていた。
助けられた際の、アレンの腕の感触と体温。それを思い出すたびに、彼女の頬は隠しきれない朱に染まっていく。壁際に控え直しながらも、視線はどうしても、少し離れた場所に立つアレンの背中へと吸い寄せられてしまう。
「……ふふっ」
「……やはり、でしたわね」
その様子を見ていたリィナとセリスが、小さく、けれど確信を持って微笑み合った。二人の視線が交わり、言葉にせずとも通じ合う何かがそこにはあった。
リィナの『思考読解』を介さずとも、サツキの視線が物語っている。彼女もまた、この「理外」の騎士の引力に囚われたのだと。リィナは袖口をそっと直しながら、優しい眼差しをサツキの横顔に向けていた。かつて自分自身がアレンに惹かれていった時の戸惑いと熱を、彼女はよく覚えている。
「私たちの仲間が、また一人増えるのかもしれませんね」
リィナが囁くように呟くと、セリスは小さく頷き、金の髪をわずかに揺らした。
「ええ。……ですが、その道のりは、決して平坦ではありませんわよ」
三か国の野心は挫かれ、アレンを巡る新たな絆が、静かに、けれど強く結ばれようとしていた。大広間には少しずつ普段の喧騒が戻りつつあったが、割れた食器や倒れたテーブルの残骸が、先刻の異常事態の余韻を静かに物語っていた。窓の外に広がる宮殿の庭園では、秋の夜風が木々の梢を静かに揺らし続けていた。




