21-2
深夜の公国宮殿別邸。本来ならば静寂と安らぎに満たされているはずの主寝室は、今、肺の奥まで焼くような熱気と、常軌を逸した魔力圧に支配されていた。
「くっ……。……はぁ、はぁ……」
ベッドの端に腰掛けたアレン・ヴァルグレイが、両手で胸を強く押さえ込んでいた。漆黒の瞳は、内側から突き上げてくる激痛に鋭く細められ、額には脂汗が幾筋も伝っている。魔術生命体ルミナを吸収して以来、彼の魔力量は指数関数的な増大を続けていた。それは既に、一個の人間という器が抱え込める限界を、静かに、しかし確実に踏み越えつつあった。
彼の周囲では、空間そのものが陽炎のように熱を帯びて歪んでいる。溢れ出した無属性の魔力は、もはや目に見えぬエネルギーの範疇を超え、黒い陽炎となって物理的な質量を伴い始めていた。絨毯の一部が、まるで見えない重みに押し潰されたかのように、深く沈み込んでいる。部屋の空気そのものが圧縮され、呼吸をするたびに肺の奥に鈍い抵抗を感じるほどだった。
「アレン様、魔力循環を……! 意識をこちらに預けてください!」
背後からリィナが駆け寄り、震える両手でアレンの肩を支えた。その隣では、セリスがアレンの右腕を取り、自らの魔力回路を全開に開き、溢れ出す奔流を引き受けようとしていた。二人が行っているのは、マスターの体内に滞留する「毒」にも等しい過剰な魔力を、自身という器へと逃がし、循環させることで暴発を未然に防ぐ、緊急の措置だった。
──パリンッ!!
静寂を切り裂き、硬質な砕裂音が響いた。アレンから漏れ出す黒い陽炎の圧力に耐えかね、リィナが常に展開していた《三重魔導護膜》が、まるで作法を忘れたガラス細工のように粉々に砕け散ったのだ。粒子となった光が、闇の中でわずかに瞬き、やがて音もなく消えていく。
「……リィナ、セリス。もういい、離れろ」
アレンの掠れた声が、物理的な重みを伴って二人に叩きつけられた。その声には、命令というより、何かに耐えかねた者の悲鳴に近い響きがあった。
(……来るな。俺に触れるな)
アレンの脳裏を支配していたのは、静かな、けれど底知れぬ恐怖だった。これまで敵を消し去り、大切な者を守るために振るってきたはずの「零」の力が、今や自分自身の手を離れ、最も愛おしいはずの彼女たちの命を、あまりにも容易く圧し潰そうとしている。かつて第一召喚の記憶の中で、無数の「刀のまがい物」をその未熟な力で叩き折ってきた時の、あの嫌な手応えが、脳裏に鮮明に蘇っていた。今度はそれが、彼女たちの細い指先で再現されてしまうのではないか――そう思うだけで、アレンの精神は凍りついた。
自分の力が、彼女たちを壊してしまうかもしれない。その予感こそが、アレン・ヴァルグレイという男にとって、世界のどんな敵よりも忌むべき絶望だった。
「お前たちが……壊れる。いいから、行け……っ!」
突き放すような、けれど悲鳴に近い拒絶だった。リィナの顔は青白く、額には冷たい汗が幾筋も流れている。セリスの額にもまた、大粒の汗が浮かんでいた。世界最高峰の適性を持つ二人であっても、今この瞬間の「太陽」を支えるには、もはや容量が限界に達していた。
「いいえ……。アレン様を一人で苦しませるわけには、いきませんわ!」
セリスが気丈に唇を噛み、アレンの腕を離そうとはしなかった。だがその指先は、物理的な重圧と魔力酔いによって、隠しようもなく細かく震えている。彼女の青色の瞳の奥には、恐怖よりも強い、誓導者としての意地が滲んでいた。
やがて、アレンの魔力が徐々に落ち着きを取り戻し始めた頃には、既に窓の外が白み始めていた。三人の間には、言葉にならない疲労だけが横たわっていた。
翌朝、疲弊しきったリィナとセリスは、テラスで冷え切った紅茶を前に、静かに言葉を交わしていた。朝の光は柔らかく、庭園の木々を淡く照らしていたが、二人の表情には、その穏やかさとは裏腹の緊張が残っていた。
「セリス、分かっていますね。……アレン様の魔力は、もう私たちの二人分を超えています」
リィナの淡い青色の瞳に宿るのは、絶望ではなく、冷徹なまでの実務的判断だった。彼女はカップの縁を指先でなぞりながら、静かに言葉を続けた。
「ええ。今のあなた様の魔力圧は、もはや私たちだけでは排圧しきれません。……アレン様の安全を確保し、かつ戦力を最大化するには……三番目の『器』が必要ですわ」
セリスの視線が、庭園の向こう、早朝の訓練場へと向けられた。そこには、修理を終えたばかりの薙刀《朧月》を一人黙々と振るう、サツキ・ハートフィールドの孤高な姿があった。彼女の踏み込みは規則正しく、朝の澄んだ空気を切り裂くたびに、微かな風切り音が庭園の静寂に響いていた。
アレンは、誰よりも「魔力循環誓約」という制度の重みを理解している。それを人生を左右する重大な束縛だと考えている自己犠牲の塊のような男が、三番目の星を自ら迎え入れることを望むはずがない。リィナもセリスも、そのことをよく分かっていた。
「アレン様を救えるのは、私たちだけ。……サツキ様がその覚悟を決めるのを、待つしかありません」
リィナの言葉に、セリスは小さく頷いた。二人の決意は、朝の冷たい光の中で、静かに、しかし確かに固まっていった。テーブルの上で冷めた紅茶の表面に、風がわずかな波紋を走らせる。それは、これから訪れるであろう困難の予兆のように、二人の胸中に長く残り続けた。
強国たちの来訪という表向きの喧騒を前に、最強の騎士団の足元では、人知れず「崩壊の予兆」が、静かに、しかし確実に芽吹き始めていた。庭園の向こうから響き続ける薙刀の風切り音だけが、その静かな決意を代弁するかのように、朝の空気の中に響いていた。




