表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーク・コントラクター  作者: 瑠志彦
第21章:強国たちの来訪

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

191/324

21-1

女神歴二一九七年十月一日。


ガルディア公国を吹き抜ける風は、まだ十月に入ったばかりだというのに、どこか冬の気配を先取りするような冷たさを帯び始めていた。宮殿の庭園に植えられた木々の梢は、夏の名残の緑を残しながらも、葉先からわずかに色を失いつつある。その微かな変化を、誰も声に出しては語らなかったが、季節の輪はまた一つ、確かに回っていた。


宮殿別邸の一室。朝の光が高い窓から差し込み、床の絨毯に長方形の輪郭を静かに描き出している。サツキ・ハートフィールドは、その光の中に座り込み、膝の上に横たえた薙刀の刀身をじっと見つめていた。鍛冶師ブロム・ハイロックの手によって精密に修理されたその刃は、以前の歪みが嘘であったかのように、滑らかな光沢を取り戻している。指先でそっと触れれば、これまで感じたことのないほど澄んだ魔力の脈動が、掌の内側へと伝わってきた。彼女はしばらくの間、その感触を確かめるように、何度も何度も刃の腹を撫でていた。深層で味わった敗北の記憶――魔力を凍結され、ただの鉄の棒と化した絶望の重み――は、まだ完全には消えていない。だが、少なくとも今、この薙刀は再び彼女の手足として鼓動を始めている。それだけで十分だった。


背後で扉の開く気配がした。振り返れば、そこには見慣れた二人の姿があった。


「お待たせいたしました、皆様」


リィナの声だった。彼女は銀髪を軽く揺らしながら、部屋の中央へと進み出る。その隣にはセリスが、いつもと変わらぬ凛とした佇まいで立っていた。二人が纏っているのは、ガルネリア本店から届いたばかりの新調衣装――アレンの「零番」昇格を記念して仕立てられた一着だった。


アレン・ヴァルグレイの「関節の可動域と放熱効率を最優先する」という、いかにも彼らしい合理的すぎる要望によって採用された、丈の短いスカートとハイニーソックスの組み合わせ。天才デザイナー、レティシア・ガルネリアの「魔力圧を逃がすための緊急排圧弁」という説明さえなければ、二人とも今頃もっと激しく抵抗していたかもしれない。それでも、鏡の前で何度も確認したはずのその意匠を、あらためて人前に晒すとなると、リィナの頬にはうっすらと朱が差し、セリスの視線もどこか落ち着きなく揺れていた。


「似合っているぞ」


窓辺に寄りかかっていたアレンが、視線をこちらへ向けることもなく、平坦な声で告げた。飾り気のない、事実確認のような一言。それでも、その短い言葉だけで、二人の頬はさらに色を濃くした。


その時、応接間へと続く重厚な扉が、控えめな音を立てて開いた。


「お楽しみのところ失礼するわ」


現れたのは、公女王エリシア・ヴァルステイン・ガルディアであった。彼女の手には、青白く発光する『アーク・リンク』のディスプレイが握られている。普段の穏やかな微笑みの奥に、今日は隠しきれない緊張の色が滲んでいた。


「アレン殿、少し厄介なことになったわね」


エリシアはソファに腰を下ろすと、端末の画面をアレンへと差し向けた。そこに表示されていたのは、三つの国章が連ねられた正式な要求書だった。アルヴェリア王国、ヴァルゼン帝国、そしてサハリス砂漠王国――迷宮を保有する三つの強国が、連名でアレンに突きつけてきたのは、彼が踏破した四十階層までのマップ公開要求だった。


「通例では、未踏破階層のマップは魔軌士局が買い上げて管理することになっているわ。……けれど、局側が匙を投げているの」


エリシアの声には、行政機関としての限界を語る乾いた響きがあった。


「四十階層までのデータは、もはや一国の国家予算を動かすレベルの価値がある。各加盟国からの拠出金のみで運営される『軽量型』の行政機関である局には、それを支払うための前金――流動資金が、物理的に存在しないのよ」


魔軌士局は将来的にそのデータを各国へ転売し、利益を得ることは可能だろう。だが、アレンという「理外」の存在が持ち帰った情報は、既存の国際行政の財布の容量そのものを、はるかに超えてしまっていた。


「マップ、か」


アレンは退屈そうに鼻を鳴らし、視線を窓の外へと流した。秋の空を流れる雲の輪郭を、しばらく無言で追う。


「あんなものはただの『直線』だ。迷宮の構造は常に揺らいでいる。……第一、俺以外にそこまで辿り着ける奴が世界に何人いる? 結界の外の『ノイズ』に耐えられず、数歩で感覚を焼かれて死ぬのがオチだろう。持っていても意味がない」


アレンにとって深層とは、地図があるから進める場所ではない。自分と、自分の守護を受けられる者――それ以外のいかなる存在も足を踏み入れることを許さない、聖域そのものだった。その冷徹な確信の前に、三つの強国の焦燥は、あまりにも小さな児戯のように映っていた。


「売る分には構わない。俺がここに居るために必要なら、好きにしろ」


アレンは短く言い切ると、視線をリィナへと移した。


「……リィナ。魔軌士局と話をしておけ。お前が納得する条件なら、俺は判を突く。いくらで売るか、あるいはどんな利権を引っ張り出すかは、お前に任せる」


「えっ、私ですか……!?」


リィナは驚きに目を見開いた。だが、その戸惑いはすぐに、確かな決意へと変わっていく。淡い青色の瞳が、まっすぐにアレンを見返した。


「……分かりました。アレン様のご負担にならないよう、精一杯交渉してみます」


第一誓導者としての責任感が、彼女の背筋を静かに伸ばしていた。


「わたくしもリィナのサポートに回りますわ」


セリスが横から口を挟む。青色の瞳には、貴族の令嬢としての知性と、誓導者としての好戦的な光が同時に宿っていた。国家間の交渉という、迷宮の攻略とはまるで異なる種類の戦場を前に、彼女の指先は無意識のうちにレイピアの柄へと伸びかけ、けれどすぐに思い直したように、静かに引かれた。


サツキは、部屋の隅から三人のやり取りをただ見つめていた。膝の上には、まだ薙刀の重みが残っている。政治と武が交錯するこの空気の中で、自分がどこに立つべきなのか、彼女にはまだ判然としなかった。だが、目の前で交わされる言葉の一つ一つが、これまで知らなかった「理外の男」の、また別の顔を映し出しているように思えてならなかった。迷宮の深層でただ強者として立つだけでなく、国家の均衡すら左右する存在として、静かに、しかし確実に世界を動かしている――その事実の重みに、彼女は言葉もなく息を呑んだ。


最強の「No.0」を巡る国家間の暗闘は、こうして静かに幕を開けようとしていた。だが、その当事者である男は、手に入れたばかりの銀色の脇差《白緋しらひ》の柄に無造作に指をかけたまま、既に意識を、この会話の先――深層の更なる深みへと向けていた。窓の外では、秋の光が庭園の木々を静かに照らし続け、やがて訪れるであろう嵐の気配など、まだ誰も知る由もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ