3-7
王都アルヴェンの迷宮街に隣接する、利便性と贅を尽くしたホテルの朝。
遮光カーテンの隙間から差し込む鋭い陽光が、アレンの瞼を叩いた。
身体を起こすと、心地よい重さの毛布が滑り落ちる。視界の端では、すでに身支度を整えたリィナが窓際の椅子に座り、一心不乱に「アーク・リンク」の画面を見つめていた。その横顔はどこか青ざめ、指先が微かに震えている。
「……リィナ。昨日預けた魔石の精算、結局いくらになったんだ?」
アレンが低い声で問いかけると、リィナはビクリと肩を揺らし、ゆっくりと端末をこちらへ向けた。
「……一〇二億……八千万、エルです……」
「…………は?」
アレンの思考が、白く塗りつぶされた。
一〇二億。元の世界の感覚で言えば、一個人が数日の「散歩」で手にしていい金額ではない。国家予算の一角を担うような天文学的数字が、液晶の中で無機質な記号として並んでいる。
「……よし。リィナ、買い物に行こう。まずは現実逃避だ」
アレンは強引に思考を切り替え、困惑するリィナを連れて王都の商業区へと繰り出した。
そこは、魔石発電所から供給される膨大な電力によって、白昼堂々と極彩色のホログラムが踊る欲望の街だった。二人はまず、探索者向けの高級防具店へと足を踏み入れた。
店内には、高純度の魔石を織り込んだ耐魔衣や、竜の皮を用いた頑強なグローブが並んでいる。アレンは自分用の戦闘服と共に、過酷な深層探索に耐えうる最新の探索用衣類をリィナのために一式揃えた。
「アレン様、こんなに高いもの……」
「必要経費だ。……それから、普段着も買おう」
遠慮するリィナを半ば強引に高級ブティックへと誘う。
アレンが選んだのは、彼女の透き通るような白銀の髪に似合う、淡い水色のワンピースだった。リィナが試着室から出てきた瞬間、周囲の空気が清涼な光に包まれたような錯覚に陥る。
最後に立ち寄った雑貨店で、リィナが一つの小さな鞄の前で足を止めた。
それは可憐な刺繍が施された小鞄だったが、彼女はすぐに値札を見て手を引っ込めた。
「それ、似合いそうだ。買おう」
「えっ、でも……」
「いいから貸してみろ」
アレンは鞄を手に取ると、周囲に気づかれないよう「理外の視界」を研ぎ澄ませた。
《魔力直接操作》を発動し、鞄の内部空間を自身が生成した「虚無の領域」へと直結させていく。魔術式を介さず、魔力の糸を空間の裂け目に直接縫い付けるような異質の作業。
「……あ。鞄からアレン様の魔力が……。これ、もしかして……」
「ああ。《空間収納》と繋いでおいた。これでリィナも、重い魔石や予備の食料をいくらでも出し入れできる」
「すごすぎます……。こんなの、世界中の商人が欲しがりますよ……」
リィナは畏怖を孕んだ感嘆を漏らし、贈られた鞄を愛おしそうに胸に抱いた。
その後、街の広場のベンチに座り、アレンは改めてリィナに向き直った。
「給金の話をしよう。リィナは俺の『誓導者』だが、同時にプロとして俺を支えてくれている。……給金は、俺の総収入の五パーセントを支払う」
「五パーセント!? そんな、多すぎます! 五億エル以上ですよ!?」
リィナは弾かれたように立ち上がった。一介の魔軌士が一生かけて稼ぐ額を、一度の遠征の給金として提示されたのだ。だが、アレンの黒い瞳は揺るがなかった。
「ダメだ。俺たちの絆を『ヒモ』なんて言葉で汚したくないからな。……分かったら受け取ってくれ」
「……わかりました。ありがとうございます、アレン様」
深々と頭を下げるリィナ。その銀髪が揺れるたび、二人の絆は主従を超えた「運命共同体」としての確かな重みを帯びていく。
翌朝、ホテルの部屋に魔軌士局の支局長レイフォルトから緊急の連絡が入った。
「支局長からです。二十一日出発予定だった深層索敵パーティが急遽キャンセルになり、代わりにアレン様を推薦したい、と」
リィナの説明を聞き、アレンは眉をひそめた。
「でも、十一日出発のパーティもいるんだろ? 空きなんてあるのか?」
「いえ……一日も、十一日も、元々スケジュールは空いていたそうです」
「空いてた?」
リィナは困ったように笑い、続けた。
「私たちが前回の遠征で『つぶしてしまった』ボス攻略の日程は、本来一月一日出発のパーティが数週間かけて、血を吐きながら辿り着き、命懸けで倒すはずの獲物だったんです。……それを私たちが三日で往復して狩ってしまったから、今の深層は完全な『空白地帯』になっているんです」
アレンは首をかしげた。
「……意味が分からないな」
「通常、二十四階層まで行くには十八日ほどかかるんです。……私たちは三日で往復してしまいましたけど」
アレンは、ようやくこの世界の「常識」と自身の「異常性」が、どれほどの断絶を生んでいるかを理解した。
「なるほどな。……じゃあ、今、深層には誰もいないってことか」
「はい。そうなります」
アレンは静かに立ち上がり、腰の「アーク・リンク」を強く握りしめた。その瞳には、昨日までの戸惑いはなく、凪いだ海のような静かな闘志が宿っている。
「よし、すぐに行こう、リィナ。次こそが本番だ」
「えっ……本番、ですか?」
「ああ。誰もいないなら、遠慮はいらないだろ」
アレンは窓を開け、迷宮の深淵が待ち構える北の空を見据えた。
そこには人類未踏の領域――エルディアの理を超越した男だけが足を踏み入れることを許される、真なる「深淵」が口を広げていた。




